ミュシャ展 国立新美術館

チェコの国民的画家アルフォンス・ムハのスラブ叙事詩がはるばる日本にやってきた。外国に持ち出されるのは初めてだとか。東京には世界中のアートがやってくる。ありがたや。平日金曜日の夕方、それなりに混んでいた。老若男女の「若」以外が一杯いた。超高齢社会日本。混んではいたが、作品が途方もなく大きいので、遮られて見えないという悲劇はない。どこからでもかなり見える。中には写真撮影できる作品もある。パシャパシャみんな撮っている。双眼鏡で絵の細部を見る。緻密にしっかりと描かれている。すごい。横山大観みたいだ。秀麗で洗練されたアールヌーボーのポスターが有名だが、こっちのミュシャは骨太だ。展示室の四方八方の壁から、スラブ民族の嘆き、哀しみ、怒り、喜び、安らぎ、祈りがステレオで聞こえてくるようだ。ミュシャの画力が存分に発揮されていて見る者を圧倒する。たとえ何の予備知識のない人が見ても何かしらの荘厳さを感じてしまうはずだ。フランスで成功したミュシャは、50歳のとき故郷チェコに戻る。「天命を知る」だ。その後10何年もかけてこのスラブ叙事詩を描いた。強国の侵略でズタズタにされてきたチェコはいわゆる弱小国かもしれない。武器を持って世界を支配させる力はない。だが、このミュシャのスラブ叙事詩に人々は今も感嘆し、時を超えて強く惹かれてしまう。神様は弱小国チェコミュシャという天才をお与えになり、ミュシャはその神の真意を悟ったのだ。ミュシャの生まれたチェコ。首都プラハは実に美しい街だった、カレル橋からプラハ城を見上げたあの日はたしか3月末の早春。あれから随分たってしまったが、あのとき見たミュシャが忘れられなかった。ミュシャチェコ語だとムハ、その方がしっくり来る。

NHK 「日本縦断 こころ旅」

BSプレミアムで随分前からやっているらしい。最近見始めた。火野正平が自転車に乗って、視聴者の思い出の場所を巡るという番組。すっかり頭がつるつるになった火野正平だが、相変わらずかわいくて色っぽい。ボヘミアンズの帽子にキャピタルの服。若い人なら当然サマになる服だが、67歳の正平さんが着てもカッコイイ。地方のそれもちょっとマイナーな場所を自転車で巡る旅は新鮮だ。自転車の速度で進む景色を眺めるのは気持ちいい。池田綾子さんの透き通る声。テーマ曲「こころたび」が画面にのると風を切ってスイスイ進んでいる気持ちになる。途中で出会うその土地の人たちと、正平さんのやりとりは、寄り添い過ぎず、突き放さず。微妙な距離感が気持ちいい。さすが火野正平~。もう何年もたってしまって、残ってないかもしれないけど、思い出の場所をもう一度見てみたい、あの人に見せてあげたい、という気持ちは誰にでもあるのだろう。自分の思い出の場所でも何でもない知らない場所なのだが、火野正平さんと共に訪ねると、あ~らふしぎ。なぜかちょっぴり切ない気持ちになる。こころが緩む~。人気番組のはずだ。納得~。

谷川俊太郎 大岡信を悼む詩

朝日新聞折々のうた大岡信さんが亡くなった。新聞が手近にあった頃は時々読んでいた。短い文章の中に世界を凝縮昇華させる詩人はあこがれだ。大岡信の逝去に、谷川俊太郎が、朝日新聞に追悼の詩を書き下ろした。「本当はヒトの言葉では君を送りたくない。砂浜に寄せては返す波音で 風にそよぐ木々の葉音で・・・」と。ヒトの言葉で表現を尽くしてきた詩人だからこそ、ヒトの言葉では送りたくないか。「ヒトの言葉より豊かな無言」で送るのだ。しみた。生死は常にそこにある。特別なことではない。今もどこかで誰かが生まれ、どこかで誰かが息絶える。生死を分けるのは神の領域だ。残酷だろうが、突然だろうが関係ない。一切を飲み込んでいくのが天の力だ。生命の尊さや、哀しみ、いとおしさは、だからこそ存在するのだろう。同じ「言葉」で格闘した詩人が、詩人に送った言葉には、春らしい暖かみと、まだ肌寒い風に晒される心細さを感じた。谷川俊太郎の魂の声かもしれない。合掌。

さよなら 渡瀬恒彦

14歳から好きだった。テレビ版「白昼の死角」の鶴岡七郎役で好きになった。「皇帝のいない8月」でクーデターをおこす若き自衛隊員、「セーラー服と機関銃」の薬師丸ひろ子ちゃんとキスする若頭、『時代屋の女房』の夏目雅子を愛する骨董屋さんと、何を演じても色っぽかった。ここ最近ではNHK朝ドラ「ちろとてちん」だ。主役の貫地谷しほりも上手いが、ほんまもんの落語家の桂吉弥に、大蔵流狂言師茂山宗彦という出演者の中、落語家の師匠を演じるプレッシャーは相当だっただろう。茂山宗彦演じる小草若が泣きながら寿限無をやっていると、渡瀬演じる父草若が突然代わりに高座に上る。地獄八景亡者戯。鳥肌がたって涙が出た。なんて朝から濃厚な15分なん?と何度思ったことか。整った顔立ちだけでなく、立ち居振る舞いにも品があった。凶暴な役ほど孤独な内面を感じさせたし、優しい瞳の奥に厳しさも見せた。情熱と冷徹さを同時に体現できる人だった。なにより、声がよかった。あの声で何か言われたら、間違いなく気を失う自信があった。ああ、どれだけ誉めても足らない。渡瀬恒彦の訃報を聞く時が来るなんて思わなかったが、歳月は容赦ない。生きていくことは喪失を重ねることかぁ。長生きって大変。

井上靖「天平の甍」(1957)新潮文庫

亡父の書棚から持ってきた一冊。紙は日焼けしてすでに茶色い。昔の文庫本はこんなに字が小さく、行間も狭かったのかと驚いた。読み始めてすぐに引き込まれた。遣唐使船で唐に渡った留学僧の話である。造船技術も全くなかった遠い上代の頃、今ではあっという間に行けるお隣の中国だが、当時の「唐」は遠かった。辿り着くのも命がけ、日本に戻るのも命がけ。今の「留学」とは重さが違う。留学僧たちが唐に渡った時は20台前半、主人公の普照が帰国した時には、既に20年以上の月日が経っていた。留学僧の中には、大陸を放浪するもの、僧をやめ唐で家庭を持つもの、そして多くのものが海難で海に沈んだ。二度と日本へ戻らないものの方が圧倒的に多かったわけだ。高僧鑑真と共にやっと日本の地を踏んだ普照だったが、帰った日本では浦島太郎。すでに仏教界は変わっていて、奈良の僧侶たちよりも唐僧たちと寄り添ってしまう。長い艱難辛苦を共にした「年月」は嘘をつかない。夫婦だって、家族だって、少々仲が悪くたって一緒に過ごした時間が絆を生むのだ。歳月という大きな河とは対照的に刹那を生きる人間は小さな蟻だ。なんやかんか大騒ぎしても簡単に潰されてしまう。だからこそ仏法は栄え、人は祈り畏れ、すがる。鑑真は視力を失いながらも渡海を諦めなかった。まさに翻弄され痛めつけられた。だが揺るがない。たとえ蠢く蟻であったとしても、いや蟻だからこそ、「美しく」生きるのだ。井上靖はいいなあ。今年は奈良の唐招提寺に行きたい。

これぞ暁斎 This is Kyosai ゴールドマンコレクション  Bunkamura ザ・ミュージアム

河鍋暁斎を見に金曜日の夜に行った。同じことを考えている人が多いのか、予想以上に人がいた。カラスから始まって、動物、異人さん、お坊さん、鍾馗 春画、美人、最後に仏さまと続く。配列がいい。イスラエルの「ゴールドマン」所蔵らしい。トランプ大統領のお友達のゴールドマンかな。収集した作品群は素晴らしい。面白い絵、真面目な絵、恐ろしい絵、美しい絵、有難い絵など、さまざまあって、全く飽きない。楽しくて楽しくてにやにやして見た。画力も凄いが、なかでも構図が面白い、何より描きまくるエネルギーに感じ入った。暁斎は今の人気漫画家なみに描きまくっていたのだろう。今なら浦沢直樹の「漫勉」で創作風景を見てみたいものだ。会場の最後の仏さま群を見終わる頃には、おもわず手を合わせそうになった。なむなむ。大満足。表現する楽しさや喜びを思い出させてくれた。金曜日の夜、満ち足りた時間を過ごし足どりは軽い。やるせない気分や、イライラでトゲトゲしたことも、今は思い出せない。すさんだ心に染み入るアート、まさにプレミアムフライデー

クラーナハ展 Cranach 国立西洋美術館

ちょっと裸が見たくて、上野の世界遺産国立西洋美術館まで来た。お父さんと息子が同じ名前で画家をしているので、絵には父と書いてあったりする。どっちがどっちかよく分からないまま会場を進む。裸の絵は会場の下の方に配置されていた。最初からは見せない所存らしい。徐々に盛り上がってくると、媚びた少女にベロベロになっているオジサンの絵があった。若い娘にいいように操られて喜んでいる初老の男たち、操られる喜びだ。でもなんでこれを絵にしたのだろう。などと思いつつ、お目当ての裸の絵へ進む。裸の女は、細身だけど下半身はどっしり。妖しい眼差し。恍惚の表情。大きな剣を持って、首にはきらびやかな宝飾をまとっているのに体は裸。いやはや。クラーナハは完璧な写実もできたはずだが、あえて体のバランスを崩して描いている。成熟した女性の体と子どもの体が同居している。エロい。絵は思った以上に小さかった。寝室などに飾ったのだろう。クラーナハは絵もうまいが、商売も上手だったという。やりてだね。