ブリューゲル「バベルの塔」展 東京都美術館

連休中の月曜日。東京都美術館に行ってきた。朝イチは中高年が多いがオンラインチケットで入る人は少ない。会場に入って最初の作品がいい。1mにも満たない4体の聖人の木像だ。帽子にガウン姿の立ち姿だが、服の皺から表情まで精緻で美しい。洋物の木像に馴染みがないせいか新鮮だった。後ろにまわるまで切り抜かれているとも気づかなかった。全然違うが円空仏を思い出した。15世紀のオランダと17世紀の日本がリンクしてしまうのも、木製ゆえの、えもいわれぬ暖かさのせいかもしれない。今回は、15世紀のネーデルランド生まれの謎の天才画家ヒエロニムス・ボスの貴重な作品が見られる。本当は食らいついてしっかり細部まで見たいところだがさらっと見る。そしてブリューゲル。遠い昔に読んだ中野孝次のエッセイを思い出す。ブリューゲルを見に私も上野までやって来た。ブリューゲルを始め、16世紀の画家の間でボスはブームになったらしい。数々の奇妙な絵が並ぶ。近づいてじっくり見たい・・・見たい。しかし版刻は小さい。ひとりの頭が近寄ると、後ろからはほぼ見えない。それほどの込み具合ではなかったが、絵が空くのを待っていたら、いつまでたっても先に進めない。イライラ・・・。最後はブリューゲルの「バベルの塔」だ。思ったより小さい。あんな小さな絵にこれほどまでに精緻な細部が書き込まれているかと思うとため息が出る、が、実際には絵の前では立ち止まれない。上野のパンダと同じ。詳しくは図録で、ホームページでご覧下さいということらしい。ここでは本物を見たという事実だけだ。むかしむかし田舎の美術館でのんびり、ひがな作品を眺めていた頃が懐かしい。「バベルの塔」は、旧約聖書の創世記に出てくるらしい。たったひとつの言語しか持たなかった民が建てようとしたレンガの塔だ、これを見た神が民をバラバラにし言葉もバラバラにしてお互いが理解しあえないようにしたというのだ。バラバラな言葉を持った現代の民は多様性という難しい問題に直面している。私たちはもともとひとつの言葉を話していたことをはたして思いだせるのだろうか。

NHK朝ドラ 「ひよっこ」

なんだかちょっと乗り切れない。有村架純がかわい過ぎるからか。いや違う。古谷一行がじいさんっぽくないからか。羽田美智子の茨城弁が上手すぎるからか。木村佳乃が首長すぎるからか。なんだか分からないが、ちょっと「もやっ」とする。脚本は岡田恵和氏。「ちゅらさん」「おひさま」のベテラン、エースの登場である。この人は、「女子」な場面を作るのが好きな人だ。「おひさま」の時は、井上真央に、同級生の満島ひかりとマイコの3人に毎度毎度仲良くべたべた「女の子トーク」をさせた。今回の「ひよっこ」でも有村架純と親友「助川時子」役の佐久間由衣が、毎朝毎朝仲良く「女子」する。木村佳乃羽田美智子が「中年なかよし女子」する。うーん。ここがいいのかもしれない。だが、ちょっと気持ち悪いのだ。おじさんの岡田恵和が書いていると思うからか、いやいや昭和がこんなにハートウォーミングだったっけ?と思うからか。そもそも田舎の人たちは、こんなにみんな素朴で仲良しだったっけ?って、思うからか。増田明美がいうように、都合よく毎回いなくなったお父さんの代わりに「変なオジサン」が現れるからか・・・・。ヒッピーオジサン役の峯田和伸が、BSドラマ「奇跡の人」の、「イットク」にしかみえないから?しかし、きっと良いお話なのだ、NHKの朝ドラらしい心温まる、ちょっぴり切なくて、ほっこりするドラマになっていくのである。来週あたりからは、すずふり亭の女主人、宮本和子も出てくるし、向島電機の和久井映見も出てくるし、もうお話が透けて見えるくらい「いい話」になっていくのである。面白くないとか、「もやっ」とするとか言えないのである。うーん。今となっては、わかりやすく脱落した「まれ」や「べっぴんさん」が懐かしい。ところで、今回は麻生久美子が出るのか。「泣くな、はらちゃん」は私のお気に入りの番組だ。

BS海外ドキュメンタリー「捨てられる養子」Disposable Children(2016)

松居和という人の保育の講演を動画サイトで見た。ちょっと衝撃的だった。私が薄情なのは子育てと関係していたのか・・・と思ったからだ。その彼のブログにこの番組が紹介されていたので見た。フランスの番組制作会社が作ったアメリカの養子の現状を描いたドキュメンタリーだ。アメリカでは養子縁組をした親が子どもと上手くいかないと、勝手にインターネット上に子どもの写真を載せ、里親を探し、子どもを引き渡すというのだ。英語のタイトル、Disposable Children。簡単に捨てられる養子だ。知らなかったアメリカの現状に驚いた。日本ももっと養子縁組が進めばいいのにと思っていたので反省した。松居和さんはアメリカ在住歴が長く、今は保育の本の執筆や講演をされている方だ。本業が尺八奏者らしいが、今の保育環境を愁い、アメリカのように日本がなる前に、何か手を打たねばと思って活動されているようだ。彼によると、0歳~2歳の子どもを育てることで、育てる親の方がまず「成長する」というのだ。究極の弱者である赤ちゃんが、無条件に絶対的信頼で頼ってくる状況に、人は「我慢すること」「信頼にこたえること」「愛情を育む」ことを学ぶ。赤ちゃんの無理難題に翻弄されるが、赤ちゃんの「ほほえみ」に無上の喜びを感じ、やがて無条件にその不自由さを受け入れる。そこに絆が生まれ、社会の基盤となる秩序が生まれるのだと。「保育」を社会化したことによる深刻な弊害に私たちはまだ気づいていない。保育所をただ増やして、お母さんが働きに出られればそれで良いという単純な問題ではないのだ。番組では何度も捨てられた子ども達自身が努力して、自分を引き取ってくれる養親を探そうとする。自分で親を探さなければならないほど絶望的な状況があるだろうか。フルタイムで働く両親に育てられ、その上子どもを育てる経験もない私の「薄情さ」について、今さら検証しても仕方ない。誰とも絆を持つこともなく年齢を重ねたツケがそろそろ近づいてきている。せめて赤ちゃんを育てる人々を応援したい。これ以上、日本のお母さん、お父さんたちが「赤ちゃんの微笑み」を忘れることがないように。

ミュシャ展 国立新美術館

チェコの国民的画家アルフォンス・ムハのスラブ叙事詩がはるばる日本にやってきた。外国に持ち出されるのは初めてだとか。東京には世界中のアートがやってくる。ありがたや。平日金曜日の夕方、それなりに混んでいた。老若男女の「若」以外が一杯いた。超高齢社会日本。混んではいたが、作品が途方もなく大きいので、遮られて見えないという悲劇はない。どこからでもかなり見える。中には写真撮影できる作品もある。パシャパシャみんな撮っている。双眼鏡で絵の細部を見る。緻密にしっかりと描かれている。すごい。横山大観みたいだ。秀麗で洗練されたアールヌーボーのポスターが有名だが、こっちのミュシャは骨太だ。展示室の四方八方の壁から、スラブ民族の嘆き、哀しみ、怒り、喜び、安らぎ、祈りがステレオで聞こえてくるようだ。ミュシャの画力が存分に発揮されていて見る者を圧倒する。たとえ何の予備知識のない人が見ても何かしらの荘厳さを感じてしまうはずだ。フランスで成功したミュシャは、50歳のとき故郷チェコに戻る。「天命を知る」だ。その後10何年もかけてこのスラブ叙事詩を描いた。強国の侵略でズタズタにされてきたチェコはいわゆる弱小国かもしれない。武器を持って世界を支配させる力はない。だが、このミュシャのスラブ叙事詩に人々は今も感嘆し、時を超えて強く惹かれてしまう。神様は弱小国チェコミュシャという天才をお与えになり、ミュシャはその神の真意を悟ったのだ。ミュシャの生まれたチェコ。首都プラハは実に美しい街だった、カレル橋からプラハ城を見上げたあの日はたしか3月末の早春。あれから随分たってしまったが、あのとき見たミュシャが忘れられなかった。ミュシャチェコ語だとムハ、その方がしっくり来る。

NHK 「日本縦断 こころ旅」

BSプレミアムで随分前からやっているらしい。最近見始めた。火野正平が自転車に乗って、視聴者の思い出の場所を巡るという番組。すっかり頭がつるつるになった火野正平だが、相変わらずかわいくて色っぽい。ボヘミアンズの帽子にキャピタルの服。若い人なら当然サマになる服だが、67歳の正平さんが着てもカッコイイ。地方のそれもちょっとマイナーな場所を自転車で巡る旅は新鮮だ。自転車の速度で進む景色を眺めるのは気持ちいい。池田綾子さんの透き通る声。テーマ曲「こころたび」が画面にのると風を切ってスイスイ進んでいる気持ちになる。途中で出会うその土地の人たちと、正平さんのやりとりは、寄り添い過ぎず、突き放さず。微妙な距離感が気持ちいい。さすが火野正平~。もう何年もたってしまって、残ってないかもしれないけど、思い出の場所をもう一度見てみたい、あの人に見せてあげたい、という気持ちは誰にでもあるのだろう。自分の思い出の場所でも何でもない知らない場所なのだが、火野正平さんと共に訪ねると、あ~らふしぎ。なぜかちょっぴり切ない気持ちになる。こころが緩む~。人気番組のはずだ。納得~。

谷川俊太郎 大岡信を悼む詩

朝日新聞折々のうた大岡信さんが亡くなった。新聞が手近にあった頃は時々読んでいた。短い文章の中に世界を凝縮昇華させる詩人はあこがれだ。大岡信の逝去に、谷川俊太郎が、朝日新聞に追悼の詩を書き下ろした。「本当はヒトの言葉では君を送りたくない。砂浜に寄せては返す波音で 風にそよぐ木々の葉音で・・・」と。ヒトの言葉で表現を尽くしてきた詩人だからこそ、ヒトの言葉では送りたくないか。「ヒトの言葉より豊かな無言」で送るのだ。しみた。生死は常にそこにある。特別なことではない。今もどこかで誰かが生まれ、どこかで誰かが息絶える。生死を分けるのは神の領域だ。残酷だろうが、突然だろうが関係ない。一切を飲み込んでいくのが天の力だ。生命の尊さや、哀しみ、いとおしさは、だからこそ存在するのだろう。同じ「言葉」で格闘した詩人が、詩人に送った言葉には、春らしい暖かみと、まだ肌寒い風に晒される心細さを感じた。谷川俊太郎の魂の声かもしれない。合掌。

さよなら 渡瀬恒彦

14歳から好きだった。テレビ版「白昼の死角」の鶴岡七郎役で好きになった。「皇帝のいない8月」でクーデターをおこす若き自衛隊員、「セーラー服と機関銃」の薬師丸ひろ子ちゃんとキスする若頭、『時代屋の女房』の夏目雅子を愛する骨董屋さんと、何を演じても色っぽかった。ここ最近ではNHK朝ドラ「ちろとてちん」だ。主役の貫地谷しほりも上手いが、ほんまもんの落語家の桂吉弥に、大蔵流狂言師茂山宗彦という出演者の中、落語家の師匠を演じるプレッシャーは相当だっただろう。茂山宗彦演じる小草若が泣きながら寿限無をやっていると、渡瀬演じる父草若が突然代わりに高座に上る。地獄八景亡者戯。鳥肌がたって涙が出た。なんて朝から濃厚な15分なん?と何度思ったことか。整った顔立ちだけでなく、立ち居振る舞いにも品があった。凶暴な役ほど孤独な内面を感じさせたし、優しい瞳の奥に厳しさも見せた。情熱と冷徹さを同時に体現できる人だった。なにより、声がよかった。あの声で何か言われたら、間違いなく気を失う自信があった。ああ、どれだけ誉めても足らない。渡瀬恒彦の訃報を聞く時が来るなんて思わなかったが、歳月は容赦ない。生きていくことは喪失を重ねることかぁ。長生きって大変。