日テレ「恋が下手でも生きています」

何だか見てしまっている。見逃せない感はまるでないのに、見てしまっている。高梨臨がキレイで可愛いのもあるが、土村芳が良いのである。かわいいのである。けなげなのである。そんでもってしっかりものなのである。お話は、ルームシェアしている高梨臨演じる美沙と千尋のふたりの恋模様。高梨臨演じる美沙はゲーム会社でバリバリ働くキャリアウーマン、だけど恋愛下手の不器用女、一方、千尋は会社の受付嬢。料理上手で世話好きで、結婚を夢見る理想のお嫁さんタイプという設定。実にありがちな設定だ。高梨臨のお相手が田中圭。「東京タラレバ娘」で大島優子の不倫相手だったが、ふしぎとなんだか許されてしまうキャラだ。ここでは素敵な会社社長。ホントにいるのか、こんな社長?!と言ってしまうほど。土村芳は婚約者に二股をかけられ、あげくの果てにはセックスが下手だと言われ落ち込む。そんな彼女の命を助けた男性「橋本」が淵上泰史。馴染みないが、ガンバ大阪のユースだったとか。ちょっと渋めで人気出そう。その淵上泰史は、女性はセフレで十分というクールな男性で、高梨臨の同僚。これまた都合のよい設定だが、そこはご愛敬。ラブコメには設定よりも、切ない気持ちにリアリティがあれば良いのだ。タイプの違うふたりの魅力的な女性。見ている女性はいいとこ取りで共感する。朝ドラ「あさがきた」の宮崎あおいと波瑠のパターンだ。都合よく「あさ」になったり、「はつ」になったりするのだ。先週は、婚約を解消した土村芳に対して、高梨臨が「結婚だけが人生じゃないから、好きなことをこれから見つけたらいいじゃん」という。土村芳が、「でも私は結婚が夢だったから」と答える。そうなのよ~。そうそう。好きなことを仕事にしたり、やりがいを感じたり、出世したり、いわゆる「活躍」したい人も一杯いるが、「活躍」に興味のない人もそこそこいるのだ。いつのまにか、私たちは「好きなこと」を仕事にしなければならなくなった。「やりがい」を感じなければならなくなった。何でもポジティブ、何でも自己責任。自己主張しない人にはツライ世の中だ。受け身で生きる自由も欲しい。とりあえず、秦基博の「Girl」の軽やかなメロディーにキュンとなりながら、今週も見てしまう。

TBS「あなたのことはそれほど」

波瑠は朝ドラ「あさがきた」から、「世界で一番難しい恋」「お母さん、娘をやめていいですか」と話題作に出演。ノリノリである。ちょっと前まで清涼感のある朝ドラの主人公だったのに、今では秘密の逢瀬を重ねる不倫人妻をスイスイ演じている。「お母さん、娘をやめていいですか」では、母親にコントロールされる気の弱い娘もなぜかしっくり来ていた。変幻自在だなあ。今回も他の役者さんがやったら嫌われそうな役だが、実際、勘違いして波瑠を嫌いになってしまった人もいるそうだが、ふしぎと役柄に説得力がある。そんな波瑠の相手役、あやうい夫役の東出昌大も面白い。これまでなにをやっても「ごちそうさん」だった東出君も新境地かもしれない。不倫相手の奥様役は仲里依紗。NHKの「逃げる女」の狂気の女もかっこよかった。今回も体温低そうでちょっと屈折した主婦を好演。登場人物全員のダークサイドが少しずつみえてきて、だんだん危険度も上がってきて面白くなってきた。しかしとはいえ、不倫もの、嫌いな人は嫌いらしい。波瑠演じる美都は、普通のキレイなお姉さん。そんな普通のお姉さんが罪悪感も持たずに不倫にはまっていく。意外にイケイケのお姉さんより、ちょっとコンサバ系の女の子の方が大胆だったりする。「だって一番好きな人、運命の人じゃないんだもん・・・」ってことで、すべてが彼女の中では肯定されていく。「愛は勝つ~」のだ。運命の人といえば、日テレ「ボク、運命の人です」。巷は「運命の人」を求めているのかしらん。実際、運命の人と結婚して幸せだと実感できる人がどのくらいいるのだろう。運命の人だと思って結婚したが、結婚したら「運命の人」じゃなくなっちゃったりするのが普通かもしれない。運命の人はアーカイブスに入れて、「それほどじゃない『あなた』」と結婚するのがやはり一番なのかなぁ。

井上靖「孔子」 新潮文庫(1989)

天平の甍」で気を良くして読み始めた井上靖の最後の作品。今から2500年前の思想家、孔子の話だ。さすがに資料も少なく孔子を主人公にした小説をすることは困難だったのだろう。架空の弟子が孔子を語るという形式で話が進む。この形式が若干くどいなあと思ったものの、的確で破綻のない文章のおかげで読み終えた。儒家の祖「孔子」には多くの弟子がいたそうだが、その中でも、高弟と言われる子路、子貢、顔回と共に流浪の旅を続けた晩年の話が中心である。弟子は三者三様、3人が揃えばこの乱れた世を治める大きな力になると信じて進んだ孔子だったが、思いを遂げることなく終わる。混乱した世界で、師弟の深い理解といたわり合いは、崇高で美しい。井上靖自身が遺作のつもりで書いたどうかは分からないが、孔子の「仁」や「天命」について、彼自身が語っているような気がした。人がふたりいると、芽生える相手を思いやる心が「仁」である。紀元前500年前に既にそんなことを言っていた人がいたのだと思った。人類は大した進歩などしていない気もする。コミュニュケーションツールは発達したが、理解が深まっているかは分からない。スマホの向こうにいる誰と本当に繋がっていて、そのつながりはどのくらい大切なのかも、よく分からない。でも、努力とはなんら関係なく、天が味方することもあるし、味方しないこともある。努力が報わることも、あっさり水泡に終わることもある。お気楽な私でも多少は分かるようになってきた。ああ気がつけば「天命」。人生は短い。

ブリューゲル「バベルの塔」展 東京都美術館

連休中の月曜日。東京都美術館に行ってきた。朝イチは中高年が多いがオンラインチケットで入る人は少ない。会場に入って最初の作品がいい。1mにも満たない4体の聖人の木像だ。帽子にガウン姿の立ち姿だが、服の皺から表情まで精緻で美しい。洋物の木像に馴染みがないせいか新鮮だった。後ろにまわるまで切り抜かれているとも気づかなかった。全然違うが円空仏を思い出した。15世紀のオランダと17世紀の日本がリンクしてしまうのも、木製ゆえの、えもいわれぬ暖かさのせいかもしれない。今回は、15世紀のネーデルランド生まれの謎の天才画家ヒエロニムス・ボスの貴重な作品が見られる。本当は食らいついてしっかり細部まで見たいところだがさらっと見る。そしてブリューゲル。遠い昔に読んだ中野孝次のエッセイを思い出す。ブリューゲルを見に私も上野までやって来た。ブリューゲルを始め、16世紀の画家の間でボスはブームになったらしい。数々の奇妙な絵が並ぶ。近づいてじっくり見たい・・・見たい。しかし版刻は小さい。ひとりの頭が近寄ると、後ろからはほぼ見えない。それほどの込み具合ではなかったが、絵が空くのを待っていたら、いつまでたっても先に進めない。イライラ・・・。最後はブリューゲルの「バベルの塔」だ。思ったより小さい。あんな小さな絵にこれほどまでに精緻な細部が書き込まれているかと思うとため息が出る、が、実際には絵の前では立ち止まれない。上野のパンダと同じ。詳しくは図録で、ホームページでご覧下さいということらしい。ここでは本物を見たという事実だけだ。むかしむかし田舎の美術館でのんびり、ひがな作品を眺めていた頃が懐かしい。「バベルの塔」は、旧約聖書の創世記に出てくるらしい。たったひとつの言語しか持たなかった民が建てようとしたレンガの塔だ、これを見た神が民をバラバラにし言葉もバラバラにしてお互いが理解しあえないようにしたというのだ。バラバラな言葉を持った現代の民は多様性という難しい問題に直面している。私たちはもともとひとつの言葉を話していたことをはたして思いだせるのだろうか。

NHK朝ドラ 「ひよっこ」

なんだかちょっと乗り切れない。有村架純がかわい過ぎるからか。いや違う。古谷一行がじいさんっぽくないからか。羽田美智子の茨城弁が上手すぎるからか。木村佳乃が首長すぎるからか。なんだか分からないが、ちょっと「もやっ」とする。脚本は岡田恵和氏。「ちゅらさん」「おひさま」のベテラン、エースの登場である。この人は、「女子」な場面を作るのが好きな人だ。「おひさま」の時は、井上真央に、同級生の満島ひかりとマイコの3人に毎度毎度仲良くべたべた「女の子トーク」をさせた。今回の「ひよっこ」でも有村架純と親友「助川時子」役の佐久間由衣が、毎朝毎朝仲良く「女子」する。木村佳乃羽田美智子が「中年なかよし女子」する。うーん。ここがいいのかもしれない。だが、ちょっと気持ち悪いのだ。おじさんの岡田恵和が書いていると思うからか、いやいや昭和がこんなにハートウォーミングだったっけ?と思うからか。そもそも田舎の人たちは、こんなにみんな素朴で仲良しだったっけ?って、思うからか。増田明美がいうように、都合よく毎回いなくなったお父さんの代わりに「変なオジサン」が現れるからか・・・・。ヒッピーオジサン役の峯田和伸が、BSドラマ「奇跡の人」の、「イットク」にしかみえないから?しかし、きっと良いお話なのだ、NHKの朝ドラらしい心温まる、ちょっぴり切なくて、ほっこりするドラマになっていくのである。来週あたりからは、すずふり亭の女主人、宮本和子も出てくるし、向島電機の和久井映見も出てくるし、もうお話が透けて見えるくらい「いい話」になっていくのである。面白くないとか、「もやっ」とするとか言えないのである。うーん。今となっては、わかりやすく脱落した「まれ」や「べっぴんさん」が懐かしい。ところで、今回は麻生久美子が出るのか。「泣くな、はらちゃん」は私のお気に入りの番組だ。

BS海外ドキュメンタリー「捨てられる養子」Disposable Children(2016)

松居和という人の保育の講演を動画サイトで見た。ちょっと衝撃的だった。私が薄情なのは子育てと関係していたのか・・・と思ったからだ。その彼のブログにこの番組が紹介されていたので見た。フランスの番組制作会社が作ったアメリカの養子の現状を描いたドキュメンタリーだ。アメリカでは養子縁組をした親が子どもと上手くいかないと、勝手にインターネット上に子どもの写真を載せ、里親を探し、子どもを引き渡すというのだ。英語のタイトル、Disposable Children。簡単に捨てられる養子だ。知らなかったアメリカの現状に驚いた。日本ももっと養子縁組が進めばいいのにと思っていたので反省した。松居和さんはアメリカ在住歴が長く、今は保育の本の執筆や講演をされている方だ。本業が尺八奏者らしいが、今の保育環境を愁い、アメリカのように日本がなる前に、何か手を打たねばと思って活動されているようだ。彼によると、0歳~2歳の子どもを育てることで、育てる親の方がまず「成長する」というのだ。究極の弱者である赤ちゃんが、無条件に絶対的信頼で頼ってくる状況に、人は「我慢すること」「信頼にこたえること」「愛情を育む」ことを学ぶ。赤ちゃんの無理難題に翻弄されるが、赤ちゃんの「ほほえみ」に無上の喜びを感じ、やがて無条件にその不自由さを受け入れる。そこに絆が生まれ、社会の基盤となる秩序が生まれるのだと。「保育」を社会化したことによる深刻な弊害に私たちはまだ気づいていない。保育所をただ増やして、お母さんが働きに出られればそれで良いという単純な問題ではないのだ。番組では何度も捨てられた子ども達自身が努力して、自分を引き取ってくれる養親を探そうとする。自分で親を探さなければならないほど絶望的な状況があるだろうか。フルタイムで働く両親に育てられ、その上子どもを育てる経験もない私の「薄情さ」について、今さら検証しても仕方ない。誰とも絆を持つこともなく年齢を重ねたツケがそろそろ近づいてきている。せめて赤ちゃんを育てる人々を応援したい。これ以上、日本のお母さん、お父さんたちが「赤ちゃんの微笑み」を忘れることがないように。

ミュシャ展 国立新美術館

チェコの国民的画家アルフォンス・ムハのスラブ叙事詩がはるばる日本にやってきた。外国に持ち出されるのは初めてだとか。東京には世界中のアートがやってくる。ありがたや。平日金曜日の夕方、それなりに混んでいた。老若男女の「若」以外が一杯いた。超高齢社会日本。混んではいたが、作品が途方もなく大きいので、遮られて見えないという悲劇はない。どこからでもかなり見える。中には写真撮影できる作品もある。パシャパシャみんな撮っている。双眼鏡で絵の細部を見る。緻密にしっかりと描かれている。すごい。横山大観みたいだ。秀麗で洗練されたアールヌーボーのポスターが有名だが、こっちのミュシャは骨太だ。展示室の四方八方の壁から、スラブ民族の嘆き、哀しみ、怒り、喜び、安らぎ、祈りがステレオで聞こえてくるようだ。ミュシャの画力が存分に発揮されていて見る者を圧倒する。たとえ何の予備知識のない人が見ても何かしらの荘厳さを感じてしまうはずだ。フランスで成功したミュシャは、50歳のとき故郷チェコに戻る。「天命を知る」だ。その後10何年もかけてこのスラブ叙事詩を描いた。強国の侵略でズタズタにされてきたチェコはいわゆる弱小国かもしれない。武器を持って世界を支配させる力はない。だが、このミュシャのスラブ叙事詩に人々は今も感嘆し、時を超えて強く惹かれてしまう。神様は弱小国チェコミュシャという天才をお与えになり、ミュシャはその神の真意を悟ったのだ。ミュシャの生まれたチェコ。首都プラハは実に美しい街だった、カレル橋からプラハ城を見上げたあの日はたしか3月末の早春。あれから随分たってしまったが、あのとき見たミュシャが忘れられなかった。ミュシャチェコ語だとムハ、その方がしっくり来る。