「動物集合」 東京国立近代美術館工芸館 収蔵作品展

北の丸公園の隅っこに国立近代美術館の工芸館はあった。初夏の緑が眩しい森の奥に進むとオレンジ色のレンガ造りの洋館があった。収蔵品の中から動物をモチーフにしたものを集めて展示した「動物集合」。布、着物から始まり工芸、陶器、彫像、絵などあらゆるものが動物だ。素晴らしい作品群だった。鳥、魚、虎、猫、実在の動物に加え、架空の獅子や鳳凰なども加わり、多彩で飽きない。ちょうどよい分量が展示されている。疲れない。展示スペースに置いてある休憩用椅子もおしゃれ。人の少なさもあって、ゆったりと贅沢な空間。そのうえ入場料は210円。え?本当にそれでいいの?と申し訳ない気分になるほどお安い。宣伝もほとんどなされていないから、知る人ぞ知る展示。1600円出して見たブリューゲルに文句はないが、210円で見た動物たちもいとおしい。工芸作品は絵画に比べるとあまり見る機会もない。もったいないなあ。こんなに見事なのに。こんな美しい作品に触れ、眺め、一緒に暮らすことが出来たなら、それこそ贅沢だと思う。作り手の魂と自分の魂がいつしか行き交い時が流れる。そこに魂が宿るのだ。帰りに北の丸公園の散歩道をぶらぶら歩きながら、くすのきの大きな幹を眺めた。木陰のベンチでぼんやり深呼吸。誰もいないひととき。これまた至福。このくすのきは何年生きているのだろう。木陰も作品も一朝一夕にはできない。何でも簡単にできちゃう昨今、時間をかけた存在がいろいろ語りかけてくる。耳をすませと。

金沢 柳宗理記念デザイン研究所

金沢からは北陸新幹線で帰ることにした。久しぶりに来た金沢駅はキレイになっていた。いろんな駅がみんな京都駅みたいになっていく。いいんだか、悪いんだか。お天気が良かったので駅からぶらぶら歩いて行った。グーグル先生によるとちょうど20分。近江町市場を越えてしばらく行くと、目的地に到着、研究所がある尾張町は古い景観を残した地域で、オシャレなカフェやらお店がぽつりぽつり、控え目にあった柳宗理は、インダストリアルデザイナーで、金沢美術工芸大学の先生だった。お父さんが民藝運動柳宗悦。宗理デザインのバタフライツール(天童木工)が入り口に置いてあった。展示は少し。柳宗理デザインの食器や料理道具が並ぶ部屋があるだけ。シンプルで美しいデザインの食器が並ぶ食卓は新婚家庭を思わせた。食卓を囲む新婚夫婦の妄想が膨らむ。妄想は3つでおしまい。ハネムーン気分のようにあっさりと終わる。建物の中庭を挟んで隣が泉鏡花文学館になっている。モダンな部屋から出ると、瓦葺きの日本家屋。金沢っぽい。折角なので、昔好きだった犀川に出てみた、犀川は記憶にあるより小さい川だった。記憶はいい加減だ。いつのまにか、都合よく塗り替えられている。しかしだからこそ生きていけるのだろう。忘れることは大事だ。嫌な思い出がいつまでも鮮明に残っていたら、つらすぎる。私の金沢の思い出もいいとこしか残っていない。近くまできたので有名な飴屋さん、俵屋へいく。俵屋は変わらぬ佇まいらしい。引き戸をあけるとその音でお店の人が出てきた、試食用の飴を慣れた手つきで楊枝に巻いてくれる。頂いてしまったので買って帰ることにした。金沢と東京は北陸新幹線で2時間28分。あっという間に東京だ。世界も、日本も、どこへ行っても同じような風景が増えた。どこに行っても同じでつまらないなあと思う。これは私のワガママなのだろうか。

日テレ「母になる」

沢尻エリカ様の額の曲線を見るために見ている。ためいきが出るカーブ。美しい。エリカ様は美しいだけじゃない。あの完璧な瞳から涙がぼろぼろ流れ出す。感動せずにはいられない。お話はシリアス。生後3歳で母親の目の前から消えた我が子が、8年後に見つかり、戻ってきて暮らしだす。行方不明だった8年間、息子には別の「育ての母」がいた。生みの母親が沢尻エリカ、育ての母親が小池栄子。「母親とは?」というテーマ。「八月の蝉」を思い出した。あのときの小池栄子は、女性ばかりの奇妙な施設で主人公井上真央と一緒に育ったワケ有り娘。今回の小池栄子は育ての母の「生んでない」という弱みと、「息子にとっての母親は自分だ」という自信を強烈に演じている。おっぱいが大きいキレイな若い娘からカッコイイ女優さんになっている。しかーし、エリカ様は当たり前だが、全然負けていないのだ。どこから来るのか全く分からない、あの「透明感」。映画「パッチギ」の時からまとっている独特のオーラは今も健在。全くイケテない普通の服を着ても漂う「気品」、儚げなのに筋が通った、しなやかさとひたむきさ。夫役の藤木直人に見せる、甘えた顔やすねた顔、もう目が離せない。タイプの違う美女ふたりが競演。母親とは何だろうと畳みかけてくる。女性とは母親になると一皮も二皮も向けて、大きく進化する人が多い。進化した女性は無敵の心を持つ。守るべきものを持つ人間は強い。まあ、母親にならずとも、女性は本来強いもの。気の弱そうな女性はいるが、本当に弱い女性には会ったことがない。女性は強いからこそ美しいのだ。

日テレ「恋が下手でも生きています」

何だか見てしまっている。見逃せない感はまるでないのに、見てしまっている。高梨臨がキレイで可愛いのもあるが、土村芳が良いのである。かわいいのである。けなげなのである。そんでもってしっかりものなのである。お話は、ルームシェアしている高梨臨演じる美沙と千尋のふたりの恋模様。高梨臨演じる美沙はゲーム会社でバリバリ働くキャリアウーマン、だけど恋愛下手の不器用女、一方、千尋は会社の受付嬢。料理上手で世話好きで、結婚を夢見る理想のお嫁さんタイプという設定。実にありがちな設定だ。高梨臨のお相手が田中圭。「東京タラレバ娘」で大島優子の不倫相手だったが、ふしぎとなんだか許されてしまうキャラだ。ここでは素敵な会社社長。ホントにいるのか、こんな社長?!と言ってしまうほど。土村芳は婚約者に二股をかけられ、あげくの果てにはセックスが下手だと言われ落ち込む。そんな彼女の命を助けた男性「橋本」が淵上泰史。馴染みないが、ガンバ大阪のユースだったとか。ちょっと渋めで人気出そう。その淵上泰史は、女性はセフレで十分というクールな男性で、高梨臨の同僚。これまた都合のよい設定だが、そこはご愛敬。ラブコメには設定よりも、切ない気持ちにリアリティがあれば良いのだ。タイプの違うふたりの魅力的な女性。見ている女性はいいとこ取りで共感する。朝ドラ「あさがきた」の宮崎あおいと波瑠のパターンだ。都合よく「あさ」になったり、「はつ」になったりするのだ。先週は、婚約を解消した土村芳に対して、高梨臨が「結婚だけが人生じゃないから、好きなことをこれから見つけたらいいじゃん」という。土村芳が、「でも私は結婚が夢だったから」と答える。そうなのよ~。そうそう。好きなことを仕事にしたり、やりがいを感じたり、出世したり、いわゆる「活躍」したい人も一杯いるが、「活躍」に興味のない人もそこそこいるのだ。いつのまにか、私たちは「好きなこと」を仕事にしなければならなくなった。「やりがい」を感じなければならなくなった。何でもポジティブ、何でも自己責任。自己主張しない人にはツライ世の中だ。受け身で生きる自由も欲しい。とりあえず、秦基博の「Girl」の軽やかなメロディーにキュンとなりながら、今週も見てしまう。

TBS「あなたのことはそれほど」

波瑠は朝ドラ「あさがきた」から、「世界で一番難しい恋」「お母さん、娘をやめていいですか」と話題作に出演。ノリノリである。ちょっと前まで清涼感のある朝ドラの主人公だったのに、今では秘密の逢瀬を重ねる不倫人妻をスイスイ演じている。「お母さん、娘をやめていいですか」では、母親にコントロールされる気の弱い娘もなぜかしっくり来ていた。変幻自在だなあ。今回も他の役者さんがやったら嫌われそうな役だが、実際、勘違いして波瑠を嫌いになってしまった人もいるそうだが、ふしぎと役柄に説得力がある。そんな波瑠の相手役、あやうい夫役の東出昌大も面白い。これまでなにをやっても「ごちそうさん」だった東出君も新境地かもしれない。不倫相手の奥様役は仲里依紗。NHKの「逃げる女」の狂気の女もかっこよかった。今回も体温低そうでちょっと屈折した主婦を好演。登場人物全員のダークサイドが少しずつみえてきて、だんだん危険度も上がってきて面白くなってきた。しかしとはいえ、不倫もの、嫌いな人は嫌いらしい。波瑠演じる美都は、普通のキレイなお姉さん。そんな普通のお姉さんが罪悪感も持たずに不倫にはまっていく。意外にイケイケのお姉さんより、ちょっとコンサバ系の女の子の方が大胆だったりする。「だって一番好きな人、運命の人じゃないんだもん・・・」ってことで、すべてが彼女の中では肯定されていく。「愛は勝つ~」のだ。運命の人といえば、日テレ「ボク、運命の人です」。巷は「運命の人」を求めているのかしらん。実際、運命の人と結婚して幸せだと実感できる人がどのくらいいるのだろう。運命の人だと思って結婚したが、結婚したら「運命の人」じゃなくなっちゃったりするのが普通かもしれない。運命の人はアーカイブスに入れて、「それほどじゃない『あなた』」と結婚するのがやはり一番なのかなぁ。

井上靖「孔子」 新潮文庫(1989)

天平の甍」で気を良くして読み始めた井上靖の最後の作品。今から2500年前の思想家、孔子の話だ。さすがに資料も少なく孔子を主人公にした小説をすることは困難だったのだろう。架空の弟子が孔子を語るという形式で話が進む。この形式が若干くどいなあと思ったものの、的確で破綻のない文章のおかげで読み終えた。儒家の祖「孔子」には多くの弟子がいたそうだが、その中でも、高弟と言われる子路、子貢、顔回と共に流浪の旅を続けた晩年の話が中心である。弟子は三者三様、3人が揃えばこの乱れた世を治める大きな力になると信じて進んだ孔子だったが、思いを遂げることなく終わる。混乱した世界で、師弟の深い理解といたわり合いは、崇高で美しい。井上靖自身が遺作のつもりで書いたどうかは分からないが、孔子の「仁」や「天命」について、彼自身が語っているような気がした。人がふたりいると、芽生える相手を思いやる心が「仁」である。紀元前500年前に既にそんなことを言っていた人がいたのだと思った。人類は大した進歩などしていない気もする。コミュニュケーションツールは発達したが、理解が深まっているかは分からない。スマホの向こうにいる誰と本当に繋がっていて、そのつながりはどのくらい大切なのかも、よく分からない。でも、努力とはなんら関係なく、天が味方することもあるし、味方しないこともある。努力が報わることも、あっさり水泡に終わることもある。お気楽な私でも多少は分かるようになってきた。ああ気がつけば「天命」。人生は短い。

ブリューゲル「バベルの塔」展 東京都美術館

連休中の月曜日。東京都美術館に行ってきた。朝イチは中高年が多いがオンラインチケットで入る人は少ない。会場に入って最初の作品がいい。1mにも満たない4体の聖人の木像だ。帽子にガウン姿の立ち姿だが、服の皺から表情まで精緻で美しい。洋物の木像に馴染みがないせいか新鮮だった。後ろにまわるまで切り抜かれているとも気づかなかった。全然違うが円空仏を思い出した。15世紀のオランダと17世紀の日本がリンクしてしまうのも、木製ゆえの、えもいわれぬ暖かさのせいかもしれない。今回は、15世紀のネーデルランド生まれの謎の天才画家ヒエロニムス・ボスの貴重な作品が見られる。本当は食らいついてしっかり細部まで見たいところだがさらっと見る。そしてブリューゲル。遠い昔に読んだ中野孝次のエッセイを思い出す。ブリューゲルを見に私も上野までやって来た。ブリューゲルを始め、16世紀の画家の間でボスはブームになったらしい。数々の奇妙な絵が並ぶ。近づいてじっくり見たい・・・見たい。しかし版刻は小さい。ひとりの頭が近寄ると、後ろからはほぼ見えない。それほどの込み具合ではなかったが、絵が空くのを待っていたら、いつまでたっても先に進めない。イライラ・・・。最後はブリューゲルの「バベルの塔」だ。思ったより小さい。あんな小さな絵にこれほどまでに精緻な細部が書き込まれているかと思うとため息が出る、が、実際には絵の前では立ち止まれない。上野のパンダと同じ。詳しくは図録で、ホームページでご覧下さいということらしい。ここでは本物を見たという事実だけだ。むかしむかし田舎の美術館でのんびり、ひがな作品を眺めていた頃が懐かしい。「バベルの塔」は、旧約聖書の創世記に出てくるらしい。たったひとつの言語しか持たなかった民が建てようとしたレンガの塔だ、これを見た神が民をバラバラにし言葉もバラバラにしてお互いが理解しあえないようにしたというのだ。バラバラな言葉を持った現代の民は多様性という難しい問題に直面している。私たちはもともとひとつの言葉を話していたことをはたして思いだせるのだろうか。