陰影礼賛 谷崎潤一郎 中公文庫(昭和50年初版)

古い本を読んでいる。だが中身は古びていない。時代を越えて、耳元で谷崎潤一郎が話しているような、ちょっと奇跡的な感覚を持つ。電車の中では特にそう感じる。この本が書かれた昭和の初めは明るい時代ではなかった。今ならLEDライトが隅々まで照らすが、明るい食卓や大きな窓は無縁、室内は昼間でも薄暗い世界だった。金箔を貼ったふすまも、金ぴかの仏壇も今見ると随分趣味が悪く思えてしまうが、薄暗い昭和の日本家屋の中では、格別な味わいを出す。金箔で模様を描いた漆器や、螺鈿細工を施した家具などは、暗い部屋のわずかな光を跳ね返して、なんとも言えない雰囲気を醸し出す。日本人の黄色い肌や歯だって暗闇ではそう悪くない。光は陰がある方が映える。光より闇の深さが人を落ち着かせることもある。それにしても谷崎の文章はよどみなく流れる。独特のリズムですーっと入ってくる。日本語本来のリズムってこれなのかも、と思う。西洋の文明を近代日本が取り入れたことで被る不利益は今も続く。西洋の言語を話す人々の考え出した理屈やら技術が世界を牛耳っているから、それを話さない私たちはいろいろ面倒なのだ。言葉は話せた方が便利だが、何でもかんでもありがたがる必要もない。明治から大正、昭和を生き「刺青」や「卍」などの独特の価値観の作品を発表してきた谷崎。自分の独自性を信じ、時代を越える作品を残した。好きな作家のひとりだ。