「コーダあいのうた CODA」(米/カナダ/仏2021)

CODAとはろうあの親を持つ、聞こえる子どものこと。コーダの子どもは、幼い頃から親の通訳をして、聞こえない世界と、聞こえる世界の橋渡しをしている。この映画の主人公がコーダ。彼女は、家族の誰も知らないが、素晴らしい歌声を持っていると言う話。お話は単純な話だが、泣ける。映画館で隣に座ったお兄さんも泣いていた。仏映画「エール」のリメイクらしい。主役のエミリア・ジョーンズがいい声で、ジョニ・ミッチェルを歌う。シビれる。ろうあの家族、父母兄はろうあの役者さんが演じている。そんな中、手話を覚えたエミリアは、歌も凄いが、演技も上手い。多感な高校生をたくましく可憐に演じていた。彼女が出る高校合唱部の発表会、家族全員が見に来る。映画は途中から無音になる。熱唱する我が子が遠くに見る家族。耳の聞こえない人にはこういう風に見えるのかと実感した。母親が主人公の娘に、生まれた時に耳が聞こえると分かってがっかりしたと話す。聞こえる世界と聞こえない世界はパラレルワールド。どちらも欠けていないが、両方とも欠けているのかもしれない。戦争が始まった。遠い国の話だが、今までとは違う何かを感じる。モヤモヤした気分だったが、映画のおかげで少し回復。あいのうたがしみる。

瀬戸内寂聴「幻花(上&下)」集英社文庫(昭和54年)

瀬戸内晴美の歴史ロマン。仏門に入られてすぐの作品で、今から45年ほど前の作品かな。室町足利義政将軍と、愛妾今参局と御台所日野富子が主な主役。下剋上から応仁の乱に至る話である。お話は現代から始まり、銀閣寺のお月見で見つけた古文書から一気に室町時代へとタイムスリップ。語り部の千草に連れられて混乱の室町の京都へ。面白かったのであっという間に読み終えた。現代から始めなくても良かったのではと思ったが、最後まで読むと、うまく伏線が回収されて、まあこれで良かったかと納得した。第二次世界大戦では戦火を免れた京都だが、応仁の乱ではすっかり焼け野原になっていたのだね。10年にも渡る長い戦乱を経た京都の土地には無数の死人の血が染み込み、骨が埋まっているのだあと思うと感慨ひとしお。京都は花も嵐も乗り越えてきているのだ。今またウクライナで戦争が始まった。私達は過去の経験を踏まえていても、戦いを完全に止めることは出来ないのだろうか。独裁者は必ず生まれ、私達が黙認したおかげでまた無数の命が失われていく。コロナに続いて、また私達は大きな分岐点に来ている。本質を掴むこと、対話すること、歴史を学ぶこと、すへては自分のために。愛するもののために。未来のために。

フジTV土ドラ「おいハンサム」

土曜の深夜のドラマ。東海TVが作っている。この枠は時々とてもいい。鈴木保奈美「ノンママ白書」や大地真央「最高のオバハン」も良かった。今回は娘3人の父が吉田鋼太郎で、奥さんがMEGUMIホームドラマ風のお話。娘は上から木南晴夏佐久間由衣、武田玲奈。3人が未婚、既婚、結婚前の娘を演じている。原作が面白いのか、脚本のせいなのか、はたまた演出か、よく分からないがとにかく楽しい。冷蔵庫のネギが残る話、彼女に冷やし中華を作らす男の話、吉田鋼太郎が三女武田玲奈に、あんな傘の持ち方をしている男でいいのか?と尋ねたりする話も。細部がイケている。娘3人の5人家族で、唯一の男が吉田鋼太郎。ステテコ履いてても格好つけられる。さすがシェークスピア俳優だね。MEGUMIは、ニュートラルで、誰とも噛み合っていないようで全体をおさめている、まさに理想の母。程よくアブラが抜けてとっても美しいのも素晴らしい。年代的なこともあるが、話題の「ミステリーというなかれ」より好き。日常で心を痛めていることも、ちょっとひいて見れば、結構このドラマのようなものかもしれない。悲劇も喜劇も紙一重。私達はそんな日常を生きている。

瀬戸内寂聴「私の京都 小説の旅」新潮文庫(平成7年初版)

昨年お亡くなりになった瀬戸内寂聴さんを読む。生前はほとんど読んでいなかった。一冊だけ読んだ本がなまめかしかった記憶がありずっと遠ざかったいた。ちょうど今年はお正月過ぎに京都を訪れたこともあり、気分新たに手に取った。この本は、作者が京都を舞台にした小説の一部を切り取って、京都の名所を紹介していく本である。どのエピソードも妙齢の女性が出てきて、京都の風景と、最近は言わなくなった女の業とを呼応させている。時々、作者が使う言葉は難しくてスッと読めない。スマホで意味を確認するとなるほどと思う。語彙の豊かさが教養の厚み。ペラペラに生きてきてしまった。読み終わったらまた京都に行きたくなった。彼女の別の作品も読んでみたいと思った。昔のことをいつまでもこだわることもない。こだわるにも体力がいる。最近はこだわりもそうだが、いい事も悪い事もなんやかんや忘れていく。どんどん薄らいでいく。日々入れ替わる細胞のように、私自身もどんどん変わってきている。大人も後半戦、振りむいている時間はもうない。前進あるのみ。

立花隆「立花隆・100億年の旅」朝日文庫(2002年)

朝日系の雑誌の連載をまとめたもの。サイエンス・ナウと同じ、科学の最前線の研究室をおとずれて、その概要をまとめたもの。20年前の話だから、その後、大きく進展したものもあったし、そうではなさそうなのもあった。当時も呑気な若者だったから、日本の科学の最先端技術なんて全く知らなかった。しかし財力があると科学も進むものだと思う。お金は本当に大事。ある時は気がつかないけどなくなるとよくわかる。本の内容は素人にはキツかったが、それでも面白く読めた。立花隆さん、ありがとう。当時ほど財力がない日本だが、今も研究が続けられていて、科学が得意な国でいることを願うばかり。研究の結果はすぐに出ないし、継続も難しい。誰かがいうように、筋トレと同じかもしれない。停滞期にいる日本だが、そこが力の蓄え時なのかもしれない。同じこと自分自身にも言っているのだが。

立花隆「宇宙からの帰還」中央公論社(1983年初版)

この本は立花隆の追悼企画でも紹介されていたので期待して読んだ。期待通り面白くて一気に読んだ。すっかり忘れていたが、その昔、世界は冷戦状態にあり、西側と東側は敵対し睨み合っていた。ソビエトアメリカの宇宙探索への競争はソビエトが当初はかなりリードしていた。アメリカは国の威信をかけてお金をつぎ込み追いかけた。今は宇宙へロケットが上がることもそんなに珍しくなくなった。それでも未だ地球のような生命体がいる星があるとは確認されていない。地球を離れれば、周囲には生命は存在しない。上も下もなく、無限無音の闇は死の世界でもある。そんな風景を眼前に見れば、人生観かわるだろう。変わらないはずがない。そう思って立花隆はインタビューを重ね、まとめたのがこの本だ。感じ方は人それぞれ。宇宙から見たら私達は今も愚かな行いを続けている。宇宙から見ると、当たり前だが地球に国境はない。ただ環境破壊の様子や戦火は見えるというから感慨深い。私は宇宙に旅立つことはもうないが、たぶん死ぬときに同じような気持ちが味わえるのではないかと期待している。生きるということはなかなか貴重な体験なのだね。普段は実感出来ないが。

立花隆「脳死」中央公論社(昭和61年)

立花隆の本を読む。亡くなると偉大な作家は特集される。その特集ではじめて私はその存在と偉業を知るのだが、多くの人が認める本にはハズレがない。この本はタイトル通り脳死の話がぎっちり。なかなか体力のいる本である。今から四半世紀前の本だから、その後変わった点もたくさんあるだろう。そもそも何も知らない私には古くても十分有効。知らないことが多すぎる。数年前に臓器移植にも年齢制限があることを知った。残念ながら、私はもう脳死になっても何も差し上げられない。この本で立花隆は当時厚生省が出した脳死判定の指針に対して、強く意見を述べている。憤っている。当時脳死だと診断された何割かは「脳死」ではなく、まだ脳は活動していた。権威のあるところがいつも正しいわけではない。それを丁寧にしっかりと説明しながら糾弾している。凄い。かっこいい。知識と明晰な分析と巧みな文章は戦う武器だ。今も昔も立派な役所がひどいことをしている事がある。いつでも安定した権力は腐りやすい。この本は読むのは大変だったが、とても勉強になった。脳死判定の知識が今後私に必要かどうかは分からないが、生きているということは、とてもとても複雑な生命の働きのたまものであることは十分分かった。いつか血流が止まり、脳が溶ける日が来る。その時まではもう少し脳を使って命を慈しんでいきたい。