推し活中なので新作の単行本だけど、購入して読む。面白かった。推し活業界に入って約10ヶ月。ファンダム(世界)の不思議な心地よさと怪しい魔力にはまり疾走してきたが、この本はそれをうまい具合に言語化してくれている。毎日SNS上で繰り広げられる世界がここに再現されていて、自分達だけの世界だと思っていた世界がとても一般的だったことを知る。自分はなぜこんな少年たちを毎日愛でるようになったのか。多くのファンが聞きもしないCDをなぜあんなに買うのか。大して綺麗にとれてもいない写真(トレカ)を嬉しそうにケースに入れて持ち運びのか。疑問が少し解消された気にもなった。私たちは正解のない世界を生きるために、ギガみたいに来世に持ち越せるものは何もない。視野狭窄して今の「生」を使い切らないといけない。うっかり気を抜くと視野が広くなって全ての喜びが消えてしまうのだ。広い視野を持ってうまく生きれば生きるほど、どんどんつまらない世界が広がるなんて、皮肉なものである。自らを使い切り無我夢中になるために私たちは今は必死なのかもしれないし。それはK-popアイドルでも大谷君でも何でもいいのである。高市早苗首相がトランプとハグする時代に私たちは生きている。カオス。どう生きればいいかなんて、もう誰にも分からない。2度とあやまちは繰り返さないと約束したのだが、どこに向かっているのやら全く分からない。視野狭窄の世界は限りなく心地良いが、このままここに耽っていていいものか。もがきながら生きて、もがきながら死んでいくしかないのだが、目の前のカオスの海は広大すぎるように思える。
「最高の贈り物」'98年版ベストエッセイ集 日本エッセイストクラブ編
古い本棚から電車に乗る時に読めそうな軽い本として持ってきた。数ページずつの短いエッセイが集められている。今では故人になった有名人たちのエッセイが時代を越えて語りだす。1998年は今から27年前。あの頃の自分、あの頃の日本を思いだすと、既にこの頃に今のわたし、今の日本の下書きは出来ていたのかもしれないと思った。経済の下降、デジタル社会の到来の兆しなど、社会は大きく変容した。世の中は良くなっているけど、悪くなってもいる。我が身を振り返れば、人生の大事な時間をただ自分の為に生きてしまったなあと思った。誰かの為に生きたかったはずだったのだが。後悔はたくさんある。でも自分なりに最善を尽くしていたはずだし。後悔を抱えて生きるのもそういうほど悪くない。タイトルの最高の贈り物は最後のエッセイから来ている。小学先の女の子の祖母がまな板を家族に残したという話。自分は何を残すのだろうか。読み終えたら、エッセイの内容はすっかり忘れてしまった。ただ面白かったという感覚だけが残った。認知症ってこういう感じなんだろうな。詳細は何にも思い出せないのだけど、感情だけがぼんやりと残る。そう遠くない未来にそうなった時に勿論ここに書いたことは思い出せないだろうが、一度来た道を歩いているという感覚はぼんやり思いだすかもしれない。
「J ・エドガー」(米2011)
クリントイーストウッド監督、ディカプリオ主演ということで以前に録画した映画。アメリカFBIの長官を長く務めた人の伝記なのだが、演じるディカプリオが上手すぎる。野心溢れる青年エドガーの屈折具合から、老年の頑固で老獪なフーバー長官まで実に見事に演じていた。エドガーには生涯を共にした人が2人いた。ひとりは秘書。彼女には若い頃プロポーズしたが断られた。秘書ならOKと言われ、個人秘書として死ぬまで雇う。また彼女は秘書としてエドガーを支え、死後も彼の秘密を守った。男女でありながら、よくある愛情関係でないのがいい。もうひとりは、仕事の片腕の副長官で、彼を生涯愛し最後は一緒に暮らしていた。母親を終生愛し、結局他の女性は愛せなかった。人生は仕事ひとすじ、晩年は毎日注射を打ちながら仕事に執着した。有能だが不器用でイビツだった彼を見ていると、全く何もかも違うのだが、自分のイビツさにも響いてきた。誰もが最善を探して生きている。他人からは理解できなくても、人はその人自身の正義に生きている。正義はひとの数だけ多様で豊富で、共通の正義は実は存在しないのかもしれない。全くは重ならなくても、そこに最善を探す努力が大切なのだろう。努力が足りない、甘えた日々を生きてきた自分に響くのはそのせいかもしれない。映画は甘っちょろくない説得力があったな。格好よく見せてくれたディカプリオとクリントイーストウッド監督にあらためて感謝。やはり録画しておいてよかった。
「ルイジ・ギッリ 終わりない風景 」 東京都写真美術館
写真には正直興味がないのだが、何事も勉強。いまだにわかってないだけかもしれない。今回も頂きもののチケットで鑑賞。何の期待もなく入ったが、大変よかった。映画を見ているような感じで、どの写真もストーリーに溢れていた。全体の色調も控えめで優しく洗練されている。作品から溢れる音が何とも言えない心地よさと同時にふと感じる感傷も生まれた。自分の中にある、小さな太鼓をポンポンと鳴らしてくれるような作品だった。そしてちょうどわたしはその小さい太鼓を探していたような気がする。同じ建物の別階で展示されていた2つの展示も見る。「トランスフィジカル」は写真美術館収蔵展のようだった。写真は切り取られた瞬間に別世界へWARPする。さまざまな写真でいろんな世界を覗き見した気分。地下の「ペドロコスタ」は刺激的だった。暗い部屋の展示は実験的で暗さと音響で別世界へ簡単にトリップできる。こちらは魂揺さぶり系で、今の私には濃すぎかなと思った。涼しくなって少し心に余裕ができたのか、久しぶりに心の赴くままに耽ることができた。耽美な季節になってきた。
「江戸大奥展」東京国立博物館
頂いたチケットで鑑賞。会期終了近くの週末だから仕方ないが、朝から大盛況、ひとひとひとだった。入場すぐがドラマ「大奥」の展示。蔦屋重三郎展のセットの一部がそのまま使われていた。エコだね。NHKとのコラボ味が溢れる展示で、そういえば音声ガイドも冨永愛だった。さて、前半は大奥の女たちを描いた浮世絵が多かったようだが、浮世絵は小さいし、人が多すぎて見るのは断念した。後半の部屋は、着物や小物、籠や日常品などてま、比較的ゆっくり見られる。ガラス細工の小さなグラスがよかった。雛人形のお道具のようで、光が入る窓辺に飾って眺めたのだろうか。大奥という籠の中で一生を過ごす女性たちの気持ちに一瞬近づいた気がした。将軍の奥方や側近、身分の高い御中臈達が着ていたであろう打掛は豪華絢爛。キラキラの総刺繍の着物は眺めているだけで眼福なのだが、どこか別世界のモノのようで心には響かない。格差あっての贅沢品。こうした着物を着る人がいなくなる社会が平和で平等ということなのかなあとも思う。お昼は上野松坂屋でお蕎麦、「花月」のかりんとうと「みはし」のあんみつを買って帰る。上野はいいね。年を取ってきたら余計そう思う。
「江戸の人気絵師 夢の競演 宗達から写楽、広重まで」 山種美術館
着物で行くと200円引きなので、浴衣で鑑賞。今「蔦重」で話題の浮世絵で、写楽、歌麿、贔屓の鈴木春信もあった。春信の何とも言えない軽さと色気が好きだ。上手すぎないのもいい。それに比べて安藤広重は上手い。構図が完璧なのだ。子どもの頃に見た祖父のマッチ箱は東海道五十三次だったのを不意に思い出した。半世紀を越えて蘇る記憶。広重の才能は人物画ではなく、風景画で花開いた。どこで花が咲くかは本人さえ分からないから、人生は面白いし皮肉だ。山種美術館には以前も訪問しているが、北大路魯山人の書や、鈴木其一の屏風絵を見るまで何も思い出せなかった。絵を見て初めて脳内にビビっときた。そうそう、私は確かにここに来たことがあったと。美術館はあまり大きくないので1時間もあれば十分見て回れる。和菓子がいただけるカフェもある。この日は近くのレストランで美味しいお酒と食事を頂いた。帰りに通りすがりの方に浴衣を褒めてもらった。浴衣の模様である夏椿は、「シャラの木」と言うらしい。短歌をなさる方らしく、いいことを教えてもらった。こういうのを贅沢なひとときって言うんだろうなと悦に入る。この日見るもの皆美しい、そんな気分だった。
福井県立恐竜博物館
夏休みに訪問。福井県最大の観光地となった恐竜博物館は平日だったが、びっくりするほど賑わっていた。恐竜人気って凄いのねえ。福井には何度も来ているが、勝山は初めて。山を越えて勝山に入る。そろそろかなぁと思ったら巨大なシルバーの半球が見えてくる。広い。トリケラトプスとティラノサウルスぐらいしか知らないのだが、とても素敵な博物館だった。広々とした展示に大きな骨格標本が並ぶ。薄暗い照明で雰囲気もある。巨大な草食恐竜を眺めているだけで、気分はジュラシックパーク。子どもならずともワクワクしてしまう。そういえば、大好きな朝ドラ「ちりとてちん」は福井が舞台だった。主人公の貫地谷しおりの弟は恐竜の研究をしたいと言ってたなあ。父が松重豊、母が和久井映見。名作だからまた再放送してほしい。帰りは福井勝山のクルミ羽二重を買って帰った。美味しかった。旅は楽しい。何もしなくても、何も買わなくても、いつもと違う風景に身を置くだけで気分がかわる。一緒に旅をしてくれた同級生たちに感謝。それぞれが人生という旅を7割がた終えている感じ。生き方も考え方も違うのだけど、同じ机を並べた時代は愛おしい。愛おしいものが増えていく。