鈴木大拙館

金沢に来るのは3年ぶり。鈴木大拙の本を読んだのはもっと前だ。内容は忘れたが、ここに来たいと思ったことだけは覚えていた。偶然目にした建物の名前に導かれ、雨の日に鈴木大拙館を訪問した。コロナ禍で観光客はいないのではと思ったが、予想に反して盛況。あまり大きくない建物に次々と人がやって来る。中は、資料の部屋、学習の部屋、思索の部屋の3つだけ。建物の周りに水の庭が広がっている。受付の人を始め、中にいる人がいかめしい感じなのは、哲学だからか。おかげで館内は静謐さが保たれている。学習の部屋で雨だれを見ながら本を読んでもいい。次に進むと浅い水面の外に出る。その一角にある正方形の部屋が思索の部屋。四方に開いていて、風が通り、外に向かって座るとさざめく水面が見える。思索の芽がむくむくと湧いて来そうなところ。ゆっくり座って退館。こんな場所がある金沢の街はいいなあ。ここの他にも魅力的な空間が金沢にはたくさんある。お城を中心にした街は、美しくて広々として、適度に活気もある。日本の良いところを凝縮したような街。また訪れて歩きたい。

藤沢周平「密謀(上)(下)」新潮文庫(昭和60年)

藤沢周平の歴史物は初めてだった。江戸モノにはない緊張感があって、少し戸惑った。時代は秀吉から家康への頃、上杉景勝直江兼続の話だ。波乱万丈の時代、景勝と兼続はただの主従関係以上の仲で、このふたりのやり取りがこの話の魅力のひとつだった。自分が兼続になった気分で景勝を見つめると、上杉景勝は魅力的だし、上杉家というのも質実剛健でいい。石田三成やスパイである草の者たちの話が加わって、一風変わった戦国歴史モノになった。上杉家の話のせいか、家康の描き方が若干手厳しいが、それも面白い。上杉家が無駄な戦いをしないという心情は、今も東北の人たちの気質にどこか通じているような気がする。真っ正直な清々しさ。今こそ大事にすべき気質のような気がする。損得ばかりに目がゆき、利ばかりを追い求めた先が今の世の中。何かと憂鬱になることが多いが、責任は自分自身にもある。歴史を振り返り今一度大切なものを確認するには良い時期かもしれない。マスクの下でもモノは考えられるのだから。

福岡 柳川水郷川下り

桜の頃に来れば美しくて何度も来たくなっただろうに。船頭さんは何度もそう言ってくれた。遠い昔に大林宣彦監督の「廃市」という映画を見て、いつか来たいと思っていた。映画の内容はすっかり忘れてしまったけど、尾美としのり小林聡美が出ていた気がする。掘割を進む船の映像がなんとも退廃的で、小林聡美がしっとりと色っぽっかったのが心に残っている。今の柳川はコロナもあり、観光客はほとんどいなかった。たったふたりの客を乗せた船とすれ違う船もない。アンパンマン顔の船頭さんは、いい声で1時間の船旅を楽しく盛り上げてくれた。関ヶ原の戦いのご褒美に貰った筑紫の土地に、柳川城の周囲に巡らしたお堀は、12年かけて作ったとか。400年前のお堀をお船でゆらゆら下る。景色は古びた風情を残すところもあるが、衰退した地方の町っぽいところもある。時間が止まったような景色に、しばしぼんやりと漂った。終点の御花では無人のお庭を見て帰る。こんなに閑散としていては、観光業の人たちにしてみれば大変だが、人ごみを避けたい方にしてみれば最高たった。大林さんも逝ってしまった。新しい時代がきたね。一方では、古い人たちが的外れなことをして自ら退いていく。世代交代。疫病に見舞われて暮れゆく国ニッポンの今の姿は、寂れた柳川の川下りとどこかつながる。また桜の頃に訪れてみたいな、船頭さんの言うとおり美しくてたまらないよね。

半藤一利編著「昭和史が面白い」文春文庫(1997年)

この本を読むのは2回目。書棚に同じ本が2冊あった。亡父は同じ本を買ってしまったことに気がついていたのだろうか。今となっては闇の中。さて、これは先日お亡くなりなった半藤さんの対談集。最近は記憶がすぐ消えるので2回目でも楽しく拝読。半藤さんの快活明晰な物言いを思い出しながら読む。帯にもあるように、昭和はすごい時代だったとあらためて思う。戦争で負けてすっかり失った我が国は、戦後20年弱でオリンピック。戦後40年でとんでもない経済大国になった。こうなると平成の平穏ぼんやりは、昭和の波乱万丈のおかげかもしれない。さまざまな角度から昭和を語るこの本は面白いだけでなく、今では聞けなくなった証言集でもある。貴重な資料を読んでいるうちに、昭和に生まれた私は幸運だったかもしれないと思い出した。発展とともに成長してこれたのだから。新しい時代、新しいウイルス、新しい生活、これからどのようにして崩壊していくのだろう。壊して作ってまた壊す。生命は破壊と再生を避けられないのかなあ。来たるべき世界におそれおののいている場合ではない。たとえ破滅があるとしても、歩みを止められないことは、昭和の歴史を見れば明らかなのだから。

ノマドランドNomadland (2020米)

ヤマザキマリさんのtweetで、急に思い立って見に行く。主演のフランシス・マクドーマンドは「スリービルボード」の時も驚かされたが、今回も衝撃だった。キャンピングカーで旅をして暮らす高齢者たちの話だ。旅をして暮らすと言えば、楽しそうだが、彼らは高齢になっても働き続けている。アマゾンの配送センターの仕事や、国立公園のトイレ掃除、工事現場や、ファミリーレストラン。エンパイアと呼ばれるアメリカの中西部の工場の町で夫と暮らしていたファーン。夫を亡くしたあと、工場も閉鎖、町も消滅して、彼女はキャンピングカーで暮らし始める。家はない。ホームレスではなく、ハウスレス。ファーンのような暮らしをする人たちがアメリカにはたくさんいる。皆、荒野で出会い、ひととき一緒に過ごして、「またどこかで」と別れる。自由の国アメリカ。絶対的な自由を求めていく姿に、覚悟のない私は恐怖を感じてしまう。映画は静かに美しく、何が起こるわけでもなく、淡々と過ぎていく。キャンピングカーの暮らしは、悲惨ではない。出会う仲間との語らいも、関わりも素敵だし。そこには砂漠の果実のような瑞々しい喜びもある。でも胸が締め付けられる思いがした。年齢を重ねていくほど、喪失ばかりが増えていく。痛みは消えることはなく、悲しみも昇華しないまま、自己を侵食しつづける。アメリカの中西部の荒涼とした自然が美しい。岩だらけの大地の向こうに山が連なる。夜明け、夕暮れ、光の加減で微妙な陰影が生まれ、息を飲む美しさを見せる。自然に抱かれ、ただの1個の生命に戻れる瞬間。そのひとときの甘美な交歓だけが生きる過酷さを忘れさせてくれるとでも言うかのようにだ。どこまでも孤独を生きる主人公に畏怖を感じた。まさに、Great America。久しぶりにアメリカにひざまずいた映画だった。

小川洋子「博士の愛した数式」新潮文庫(平成17年)

先日NHK-BSで同名の映画を見たので読んだ。映画は主人公が深津絵里で、博士が寺尾聰。小説の雰囲気がそのまま映画になっていたし、配役もよかった。映画では大人になったルート吉岡秀隆が教壇で数学にまつわる話をするところから始まるが、小説では最後にルートが数学の先生になって終わる。80分しか記憶が持たない数学者とシングルマザーの家政婦とその息子という、不思議な関係の三人が、一生懸命互いを慈しむ話。すぐに記憶を失ってしまう博士は記憶を積み重ねることが出来ない。だけど、なぜかあふれんばかりの愛情を家政婦の息子ルートに注ぎ続ける。子どもは無限の愛情を受ける権利があるといわんばかりに。博士の不器用さがこの関係の肝でもあり、彼の病が3人の関係を重くさせすぎない。博士の記憶は阪神タイガースの江夏で止まっている。背番号は28。完全数の江夏は天才左腕で孤高の人でもあった。考えてみれば、プロ野球は数字の世界だ。数学者が野球好きというのもうなずける。第一回本屋大賞でベストセラーだったらしい。組み合わせの妙と、描かれた世界の暖かさが、ギスギスしがちな毎日のゆるめてくれる。さて、プロ野球は開幕。春はデーゲーム、夏はナイターを見て過ごす日常が、早くマスクなしでできますように。祈りは続くよ。どこまでも。

ちくま日本文学全集「宮澤賢治1896-1933」筑摩書房(1993年)

折角、宮澤賢治の扉を開いたのだからと、全集を読むことにした。巻末に井上ひさしが「賢治の祈り」と題して書いている。賢治の作品は、賢治その人自身と密接に結びついて読むものだと。年譜を読むと、花巻の商家の生まれだということ、二つ下の妹を失ったこと、仏教との関わりがあったこと、35歳で亡くなったことなどがわかった。賢治の生涯を考えながら読むと、確かに作品が一層鮮やかに立ち上がる。賢治の作品はわかりづらい言葉づかいが多々ある。我慢して読み進めていくと、漠としてはいるが、何がしかの像が結ばれてくるのが不思議がある。これが、井上ひさしが言う、「彼の作品は祈りである」とつながる。念仏の意味は分からないが、唱える心に祈りは宿る。自分の命を顧みることもなく、自らの思うことに従い、作品に祈りを込めた。人間ひとりの小さな祈りは今も読む人の心を照らす。神聖な灯火が心を揺らす。さて、現在の私たちの祈りは、一刻も早い疫病の終息だ。1日も早くマスクを外せる日を心待ちにしている。しかし、願いの先にあったのは聖火リレーだった。オリンピックというきらびやかなお祭りがもう何年も前から大金をつぎ込んだ虚飾一杯なイベントなのは知っていた。我が国もどうやら表沙汰に出来ない大金をつぎ込んで誘致したし、多くの人がそこに群がった。新型コロナウイルスの登場で、今、世界はいやおうなしに既存のルールを変えようとしている。どうなるかは誰にもわからないが、早く私たちの願いが叶いますように。心からそう願う。