昭和55年の文庫本。日本エッセイストクラブ賞を受賞。まだ多感だった頃に読んだはずだが、中身の記憶がない。感動した覚えだけがほんのり残っている。再読で記憶が少し蘇った。10代の私、なかなか頑張っていたのかも。昨年はブリューゲルの「バベルの塔」を見た。本物が思いのほか小さくて驚いた。もっと驚いたのは小さい絵に顔をひっつけて見ないといけない位、細かく書き込まれていたこと。ブリューゲルの描いた作品の意味するところは結局よく分からなかったが、陰鬱な気分が足元に迫る気がした。中野孝次はブリューゲルの絵の不気味さを探りながら、自らの話を絡めて進めていく。欧州にあこがれた過去の文学青年も今ではその暗鬱さに辟易としていた。そんななかでブリューゲルに会い、ブリューゲルの絵が、過去の何かを呼び覚ました。戦時下の強烈な抑圧。忌み嫌った無知で野蛮な世界。汚い息づかいを遠ざけた高尚な思想も生と死の境界では何ら意味をなさないこと。人が虫けらのように殺されていたブリューゲルの生きたネーデルランドの恐怖政治。消えていく命を当然のように俯瞰する目。ブリューゲルの暗い目に見せられ、作者はヨーロッパを、過去を、自分を放浪する。私も一緒にさまよってしまった。どんより曇った心をつかむのは案外明るい光ではないのかもしれない。暗い瞳の奥で鬼を見つけることもある。鬼の顔をよくよく見てみるとそこに自分がいたりする。救ってくれるのは天使ばかりじゃないのかもしれない。