映画「三月のライオン」(前編・後編)(2017)

長いフライトに任せて、前編・後編を一気に見ることができた。お気に入りの神木隆之介君が主演。繊細だが、切れ味鋭い主人公桐山零を演じる。家族全員を交通事故で失った桐山零は父親の友人の棋士の元で育つ。養父には同じ年頃の姉と弟のふたりの子どもがいて、彼はそのふたりと共に棋士を目指した。姉の香子が有村架純。これはミスキャスト。彼女の甘ったるい顔が、父親であり、棋士である豊川悦司に毒づき、棋士伊藤英明と不倫し、自暴自棄になる娘の役にはどうしても見えない。二階堂ふみなら違和感なかったかもしれない。凄いのは、一瞬誰だか分からないほど太った染谷将太。まんまるの奇人、二海堂になりきっていた。棋士の島田を演じた佐々木蔵之介も良かった。頭をかきむしって心身消耗する姿には鬼気迫るものがあった。そしてトップ棋士宗谷を演じるのが加瀬亮。なんともいえない異様な雰囲気でゾクゾクさせてくれた。伊藤英明のキレキャラも、伊勢谷友介の駄目ブリも、ひなたちゃん演じる清野果那の可憐さも、それぞれが際立っていて前半後半4時間があっという間だった。将棋ブームの昨今、若き天才棋士、藤井4段の姿と神木君の桐山零がかぶる。映画の世界から現実の世界が透けるようだ。将棋を知らない人間にも勝負師たちの身を削るような日常が見えてくる。勝負の世界は年齢など関係なくて、少年から、中年、初老の男性まで、皆、孤独な戦士だ。男たちがとてもかわいい映画だった。

“Ode to My family”, さよならDolores, RIP.

クランベリーズのボーカル、ドロレス・オリオーダンが46歳という若さと突然この世を去った。クランベリーズと言えば90年代。今から思えば私の人生が大きくカーブを切っていた頃だった。クランベリーズを聞くとあの頃を自動的に思い出す。有名なDreamsやら、Zombieも印象的だが、なかでも私はOde to My familyが一番好きだ。ドロレスの「♪トゥルトゥトゥ・・・」という声を聞くだけで切なくなって、「♪My mother, my mother she told me・・・」の頃にはすっかり遠い目になってしまう。どっぷり浸ってしまう。ドロレスのあの声を聞くと今でもあの頃の持て余したエネルギーや、もやもやとした焦燥感が蘇る。期待や不安が湖面の波のように寄せては返していた。あふれ出すことのない湖の水。あのキラキラはもう戻らない。今となっては昔の話。あれからだいぶたって念願かなってアイルランドを旅行した。直前にドロレスのソロアルバムNo Baggageを聞いて行ったことを思い出す。アイルランドの灰色の空と、シャムロックの緑の世界を旅しながら、ドロレスの声を聞いていた。ドロレスの声は強くて、切なくて、純粋で、神々しい。どこまでも伸びやかで、空を駆け巡るような歌声が、私は大好きだった。一番好きだったOde to My familyを今夜聞いて眠りたい。May she rest in peace, Dolores

野村万作・萬斎 狂言のゆうべ 文京シビックセンター大ホール

文京区在住の萬斎さんが、最初の30分、演目の説明をしてくれる。相変わらずシュッとしたキツネ顔の萬斎さんも51歳。でも若々しい。15年ほど前は萬斎さんに夢中だったことを思い出した。出し物は3つ。小舞「景清」は萬斎さん。キレのいい華やかな舞。つぎは、万作さんの「川上」。盲目になって10年ほどした男性が、霊験のある地蔵に会い山に登り、地蔵に目を治してもらう。地蔵は男に「嫁とは悪縁があるので、すぐに別れなさい。さもなければ、また盲目になるぞ」と告げる。目が見えるようになった男は喜び、杖をうち捨て山を下りる。早速嫁に会い「別れよ」と言う。嫁は怒り狂って大騒ぎ。騒いでいるうちに男の目は再び見えなくなってしまう。杖のない男は両の手を前に伸ばし空を探る。その手を嫁がさっと引き、ふたりは一緒に帰っていくという話。万作さんは今年85歳の人間国宝。動きも言葉も表情も素晴らしく深い。盲目の悲哀も、嫁へ別れを告げる冷酷さも、目が見えてもう杖など要らぬと投げる捨てる調子の良さも、再び嫁に手を引かれる弱々しさも、図々しさも。どれも濃すぎず薄すぎず。見る者の心にすーっと入り込む。なんだろう。心にどーんと来た。最後は萬斎さんの「仁王」。ばくち打ちが破産して仁王に化けて、お供えもを頂戴して稼ごうとする話。仁王に化けた萬斎さんのおどけぶりに、好きだった頃の自分を思い出した。萬斎さんはコミカルなところがいいのだ。少し感慨深くなっていると演目はすべて終わる。ちょっと食い足りないが、これくらいがちょうど良い年齢となった。まことの花とは、盛りを過ぎ、葉を落とした命が再び幼子のような純粋さに辿りつくことなのかもしれないな。

特別展 「運慶」 興福寺中金堂再建記念特別展 東京国立博物館平成館

東京国立博物館の「運慶」は予想通り混雑していた。博物館の奥にある平成館で開催中。「平成」も今年で29年。あと1年なのかと思うと感慨深い。どこの展覧会でもそうだが、入り口付近は混んでいる。まずは大日如来座像がお出迎え。運慶20歳の作品。奈良の円成寺からのお越し。蓮の上に背筋を伸ばして座る大日如来。その周りに群がる人間たち。押し分けやっと尊顔を拝むと、恥ずかしくなるくらい仏は静かに祈っておいでだ。曼荼羅の中心にある大日如来。宇宙のエネルギーはすべてここから始まっているのだろうか。弱冠20歳の運慶がこんな静謐な仏を彫るのかと愕然とした。次々と現れる仏像は今にも動き出しそうであり、永遠に沈思黙想する静けさもある。観音様や菩薩様が纏う布の滑り落ちそうな質感や、毘沙門天多聞天の武具の重量感。見ていくほどに仏の世界にぐいぐい引き込まれる。なかでも丸く張ったふくらはぎや二の腕が美しい。しなやかでたくましいのだ。今回の展示された仏像のいくつかは、CTスキャンをかけてみると、中に経典やら木札が入っていたことがわかったらしい。仏像の体内で眠る経典や木札。1000年を越えてその存在をあらわす遥か古の人々の祈り。会場を出るころにはすっかり仏の掌でもて遊ばれたような気になった。運慶らの仏像に仏が入り、その仏像を見る私に、自らの仏が目覚めたのかもしれない。天才仏師「運慶」の世界。いやはや時代は後退しているのかもしれない。

3度目の殺人(2017)

なんの予備知識も持たずに見に行っていた。是枝監督の映画なのだと始まる時に知った。おおお、カンヌだ。レッドカーペットだ。と、ちょっと意味のない期待をしてしまった。主演の福山雅治は裁判で勝つことしか考えていない冷たい弁護士。久しぶりに見た福山君はすっかり中年の人だった。ちょっと前まではまだ微妙にチャラかったのだが、いい感じに老けていた。映画は、強盗殺人犯の男の弁護を重盛(福山)が引き受けるところから始まる。被告の三隅(役所広司)は接見するたびに供述をコロコロ変えてくる。とらえどころのない男の役を役所広司が神がかり的に演じている。突然怒り出したり、ヘラヘラしたり。善人なのか、悪人なのか、見るものをぞわ~っとさせる怪演。そんな三隅に父を殺された娘に広瀬すず。TV「学校のカイダン」の時からもう何年もたっているが、今も制服姿がかわいい。そして暗い表情がまたいい。その母親に斎藤由貴。最近の不倫騒動のおかげで、うさんくさくて妖しくてこちらも素晴らしい。映画は、一体三隅は本当に殺したのか?殺していないのか?広瀬すずを守ろうとしたのか?それとも頼まれてやったのか?3度目の殺人って、誰が誰を殺すのか?などと、疑問が渦巻く。まんまと是枝監督の手中にはまって映画は終わる。もやもやもや・・・。ちょうどテレビで「そして父になる」をやっていた。あそこの福山雅治も今回の重盛もよく似ている。薄情で傲慢な男。そんな男が崩壊していくなかで、何かを取り戻していく。これが是枝監督自身が描きたい姿なんだろうな~っと、勝手に納得した。しかし法廷ものより、家族ものの方が、面白かったな。驕れる福山雅治が落ちていく様を見ていると下品だがある種の快感がある。福山君にはこれからも悪い役や嫌な奴を演じてほしい。そして、ゲスな私を救ってほしいと思う。

台湾 鹿港(ルーガン)観光(2017)

台中から小さなマイクロバスに乗って1時間で赤レンガの街ルーガン(鹿港)に到着した。台中の干城駅のバスターミナルで中鹿客運の乗り場を探した。バス停に一枚の紙が張ってあった。中鹿客運9018と。バス停周辺にいる人たちが、ありったけの日本語で私たちに説明を試みてくれた。台湾はこういうところが心にしみる。10分ほどでマイクロバスが到着。料金は95元。現金で支払う。鹿港(ルーガン)はお隣の彰化県にあり、清の乾隆帝の頃、18世紀の終わりには、台湾では台南に次ぐ第二の都市として栄えていたそうだ。狭いレンガ造りの道沿いにお店が建ち並ぶ老街を散策。土曜日だが人出はほどほどで、ブラブラして牛タンの形の牛舌餅など買い食いしながら歩くのが楽しい。九份も10年以上に前に訪ねた時はこんな感じだった。今ではすっかり台北からの人気日帰りスポットになってしまって、随分雰囲気が変わってしまった。鹿港(ルーガン)はその点、まだ消費されていなくて、のんびりしていた。最後に有名な肉まん屋さん(阿振肉包)で翡翠肉包(20元)を購入。龍山寺のベンチで頂く。美味しい、具もそうだが、外側のパンがなめらかで美味しい。帰りも同じ中鹿客運のバスに乗って台中へ帰る。最後まで乗っていた乗客は私たちだけだった。「どこまで帰るのだ?」と運転手に聞かれたようだったので、仕方なく運転手さんの横まで行って「火車駅」と書いたメモ用紙を見せた。運転の荒い運転手さんだったが、メモを見たら頷いて凄い勢いで駅に横付けしてくれた。台中に行く人は少ないのか、途中で出会った日本人はいなかった。言葉も通じなくて不便もあるが、異国を旅するのだから仕方ない。スマホのおかげで世界中がとても簡単に旅できるようになった。便利でいい。でも着実に何か失われてしまった。



ダンケルク Dunkirk (2017)

初日の劇場に行った。エヘン!臨場感ありすぎだと怖いのでアイマックスは止めて普通の劇場で見た。それでも桁外れの緊迫感。何度も鳥肌がたった。話題のクリストファーノーラン監督の新作。楽しみにしていた人も多いのだろう。劇場は男性が多い。お話は第二次世界大戦時1940年のフランスのダンケルクダンケルク大撤退(Dunkirk evacuation)として、ヨーロッパの人には馴染みのある話なのだろうが、私は全然知らなかった。ダンケルクの街は、ベルギー国境に近いフランスの海辺にある。目の前のドーバー海峡を越えれば、そこはイギリス。ドイツ軍が迫るなか、ダンケルクの海岸に英仏両軍の兵士は撤退脱出を待っている。その間もドイツ軍の攻撃は続く。防波堤から、海から、空から。それぞれの視点でこの脱出劇は語られていく。脱出を望む兵士たち。イギリスの船にはフランス人は乗せないという声。目の前の海を越えればホーム。イギリス側からダンケルクに救出に向かう民間の船。容赦なく降り注ぐ銃弾。沈没する船。海に投げ出される兵士。映像が鮮烈で、銃弾が我が身に降りかかるようだし、浸水していく水で息が詰まりそうだった。その一方で、映画の目線は冷静。見ていて生まれる戦争に対する感情は行方を失ってさまよう。人はこうした状況下ではただただ生きることに収束しホームを目指す。昨今、戦争がどんどん身近になっていくせいか、映画の中で死んでいく人間が自分になるかもしれない、近しいあの人になるかもしれないと、ぼんやりと想像した。映画の最後に埠頭に残った指揮官の言葉で少しホッとした。殺伐さの中で一条の光。やはり救われたいのだ。旬なクリストファーノーラン作品、見て良かった。