NHK大河ドラマ「いだてん」第2部

視聴率は低迷したまま、第2部が始まった。中村勘九郎も悪くなかったが、やはり阿部サダヲが出てきて良くなった。クドカンらしい疾走感が増した気がする。こうなると音楽もはまり、タイトルバックさえ鮮やかに見えてくる。阿部サダヲのちょっと大袈裟な感じ、「面倒くさい」感じが大事なのだ。桐谷健太も私の苦手な「まんぷく」の時より、ずっといい。皆川猿時やら夏帆やら、斎藤巧やら、こうなると全てが噛み合い加速度が増す。1部の最後も悪くなかった。関東大震災の話は、「あまちゃん」の時の橋本愛を思い出させた。あの静かな悲しみ。重い石が心の底で沈んでいるような。たけしの滑舌だってだいぶ良くなった。しかし、いったんケチがついてしまうとなかなか難しい。視聴率が悪いということは、50歳以上の高齢者が見ていないということで、作品の面白さとは比例するわけではない。高視聴率のテレ朝系のドラマも今の朝ドラも実は大して面白くない。ベタな良さもあるが、飽きるのだ。走り抜けるような疾走感と笑い。みんなちょっと愚かでかわいげがあって、普通の人がときどき立ち止まって見せる静かなやさしさや悲しみ。こっちが今のドラマだなぁと思うのだが仕方ない。とりあえず、高橋是清演じるショーケン見ないと。あの怪演。ショーケンは最後まで本当にかっこいいね。合掌。

クリスチャン・ボルタンスキー CHRISTIAN BOLTANSKI lifetime 国立新美術館

素晴らしい展覧会だった。自分のフレームが薄くなり、心が浮遊した。なんともいえない、緩やかな衝撃があった。たまたまだった。国立新美術館で時間が出来たので何か見ようと思った。エゴンシーレやクリムトも魅力的だったが、荒涼とした海辺にたつオブジェの写真にひかれて、ボルタンスキーに入った。入るとすぐにミニシアター。古いサイレント映画のような映像で、グロい。エロい。異次元への第一歩。まさにDEPART.。次の部屋はモノクロームの写真がたくさん並んでいた。説明はない。モノクロの写真とブリキの入れ物、暗い照明。誰かの遺品なの?次々現れる部屋はどれも不気味で、でもどこかノスタルジック。心臓の音?が不気味に響き、白いスクリーンに骸骨の影絵が揺れる。小学生のお嬢さんを連れた母子がいた。娘さんは両手で耳を塞いでおびえている。確かに、ここには「死」が満ちている。祭壇に並ぶモノクロの写真には笑顔もあるのに、当てられた照明器具の影で写真は黒く撃ち抜かれていた。タナトスの降臨?黒いコートが積み重なって、ボタ山。コートが尋ねる。あっという間だったかい?って。白い波の花のような紙くずが敷き詰められた部屋。大きなスクリーンには無数の風鈴が揺れている。りんりんりん。パタゴニアの海岸にあるオブジェ。クジラが打ち上げられている。そして「来世」。光が満ちる。電球は毎日5個ずつ消えていくらしい。この日はまだ若い時期だったらしい。まだ明るい。黄金の海は金箔の紙がくちゃくちゃで、その上を黄色い電球がゆらゆら揺れている。どれもこれも心にしみた。今の私にぴったりの展覧会だった。誰もが楽しめるかどうかは分からない。ただ私は満ち足りた。救われた。

辻惟夫「奇想の系譜」ちくま学芸文庫 (初版2004年)

この本が最初に出たのは1970年。今から約50年前。ここ最近人気の若冲やら国芳やらは、50年前は誰も知らない存在だったのかと驚いた。とすると、この本はすごい本なのだ。本の扉をめくると、まず衝撃的な口絵が目に飛び込んでくる。絵巻に登場する平安朝風の女性が胸元から血を流している。血なまぐさい絵で、においがしそうだ。1578年生まれの岩佐又兵衛の作品。戦国時代、殺戮が身近に存在していた時代の絵だ。又兵衛の絵には奇妙な高揚感がある。見るものを高ぶらせる。次は狩野山雪。襖絵に大蛇のように描かれる老梅。押さえきれない、執拗な魂を感じる。お次が伊藤若冲若冲もこの中にあると、奇矯さが目立たないね。「無重力的拡散」という言葉で若冲の絵を紐解いたのには鳥肌が立った。若冲の絵の美しさはこの配置、レイアウトにあるのだ。蕭白、蘆雪、国芳。次々と私には好きな画家が続く。楽しい。嬉しい。巻末の年表のおかげで系譜がよくわかる。勉強になったなあ。若いころは洋画が好きだったが、ここ最近は和ものが好きだ。特に江戸ものが。遠くを見つめていた目が、身近なものの存在にやっと気づいたのかもしれない。そういうお年頃なのである。

 

日本刀の華 備前刀 静嘉堂文庫美術館

美術館へ続く坂道、タクシーが次々と追い越して行く。今日は最終日。幸いにも招待券のおかげで長い列に並ぶことなく入館した。よーし、今のうちだ。人が少ないうちにしっかり見よう。しかし、刀剣の展示を見るのは初めて。残念ながら勝手がわからない。刀に添えてある説明書きがまた分からない。仕方ないので、見どころのイラストを手立てに、ただじっと眺めている。刀の腹に現れるふしぎな薄雲のような模様を見る。光線の加減で三日月が浮かんで見えた。嬉しい。しばらく眺め続けていると、あら不思議。なんとも言えない気持ちになる。日本刀は、もともとは戦いの道具だったが、やがて平和な時代になり、身分や権威を示すものになった。触っただけで血が出るほど研きあげられた刃をのぞき込んでいるうちに変な妄想が浮かぶ。冷たい刃に熱い血がしたたり落ち、斬られた体からは湯気があがる。手に持つ刀は赤く染まりながらも涼しげに光っている。美術館でお行儀よく並ぶ刀剣たちは本当に綺麗だ。私の妄想などとは全く別世界にいるようだ。初めての日本刀の鑑賞。思いもかけず日本刀たちが饒舌なのに驚いた。また刀を見に行こう。

予科練平和記念館 茨城県阿見町

霞ヶ浦近くの、白と灰色の四角いモチーフの背の低いオシャレな建物だった。中からでもいつも空が見える。戦前ここに海軍航空隊があったため、予科練と呼ばれる、戦闘機に乗る若者たちの航空学校予備校があったのだ。建物に入ると正面に大きな写真がかかっている。中高生の男の子たちが上半身裸で綱引きをしている。撮影者は土門拳。あばら骨が浮いた細い体が躍動している。予科練の制服は七つの金ボタン。七つの海を飛ぶようにという願いらしい。展示も七つの部屋から成る。予科練を目指し、予科練で仲間と暮らし、学び、空を飛び、やがて戦局が悪化すると特攻に行った。多くの前途有望な青年たちが空に消えていった。重苦しくなりがちな展示だがそれに終始することなく、15歳の少年たちの日々の暮らしや憩い、夢、志、時代の空気を丁寧に見せていて、好感が持てた。昭和は戦争の時代と言われる。平成は戦火を交えることはなかったが、世界が平和になったわけではない。戦争の悲惨さをどのように伝えても、人は戦うことをやめないのかもしれない。安易に戦争だと口にする政治家がいたり、今も戦闘機の購入に大枚をはたいている私たちの国。「美しく死んでいく」というのは幻想。ただ人殺しなどせずに生きていきたい。ただそれだけ。

生誕100年 堀文子 追悼展 ―旅人の記憶― 日本橋高島屋SC

1918年生まれの堀文子さんは美しい方だった。今年の2月、100歳でお亡くなりなった。残念ながら追悼展で初めて作品を拝見した。友人とのドクダミ話から存在を知り、会期ギリギリで日本橋高島屋8階、九州展の匂いがする会場に赴いた。美しい堀さんか描いた絵は凛としていた。上品で華やか。ピンクの色使いが素敵だ。描き方も変幻自在。洋画であったり、日本画であったり、クレーのようで、ミロのようで、いわさきちひろ風だったり、何ものにもとらわれない自由さがあった。同時に絵に対する自分自身への厳しい目線も感じた。子ども向けに書かれた一連の絵が特に良かった。「子どもには最高のものを見せなければ」と描いた作品は、きめ細やかで暖かい。上等なタオルのように包み込む。「群れない、慣れない、頼らない」堀文子さんはひとりの孤独と自由を味わい、そして戦ったのかもしれない。「ひまわりは枯れてこそ実を結ぶ」。ほんのり黄色のこの絵ほ、茶色になったひまわりが重そうにうつむいている。枯れているのになぜかひまわりは満足気なのだ。帰りにポストカードを買った。展覧会では心に残った作品のカードを買って帰ることにしている。今回買った1枚は、「芒(すすき)」。黒い背景に銀色のススキ、綿毛が飛んでいる絵だった。この絵は堀さんの本の表紙になっていた。本のタイトルは「ひとりで生きる」。最後までしびれた展覧会だった。合掌。

テレビ朝日「白い巨塔」5夜連続

沢尻エリカ様の美しい額のラインを除けば、もういいかな・・・という気分になっている。今更「白い巨塔」なんだなあ。テレビが50歳以上のメディアだと言われても仕方ない。主役は岡田准一君。身長が低いから威圧感がないのかもしれない。でもそもそも岡田君は善人キャラ。ギラギラした昭和の野心家じゃないのかも。田宮二郎唐沢寿明で、次は、福山雅治長谷川博己だったのかもね。福山雅治は「集団左遷」よりこっちの方が合いそう。長谷川博己は大河があるしね。そんななか、ぴったりはまった感があったのは、白衣が似合う市川実日子。アンナチュラルのせいかな、シンゴジラのせいかな。椎名桔平もいい。松山ケンイチも悪くない。白い巨塔のような世界を私は知らない。野心溢れる人はだいたい上の方にいっちゃうから。周りにいる人は野心もないが、向上心もない人ばかり。そこそこの世界で安住している。夢を描いて、がんばって努力して、手に入れて、大切にする。立派だなあ。立派にはなれなかったけど、とりあえず、そこそこ生きている。それでいいよね。