3度目の殺人(2017)

なんの予備知識も持たずに見に行っていた。是枝監督の映画なのだと始まる時に知った。おおお、カンヌだ。レッドカーペットだ。と、ちょっと意味のない期待をしてしまった。主演の福山雅治は裁判で勝つことしか考えていない冷たい弁護士。久しぶりに見た福山君はすっかり中年の人だった。ちょっと前まではまだ微妙にチャラかったのだが、いい感じに老けていた。映画は、強盗殺人犯の男の弁護を重盛(福山)が引き受けるところから始まる。被告の三隅(役所広司)は接見するたびに供述をコロコロ変えてくる。とらえどころのない男の役を役所広司が神がかり的に演じている。突然怒り出したり、ヘラヘラしたり。善人なのか、悪人なのか、見るものをぞわ~っとさせる怪演。そんな三隅に父を殺された娘に広瀬すず。TV「学校のカイダン」の時からもう何年もたっているが、今も制服姿がかわいい。そして暗い表情がまたいい。その母親に斎藤由貴。最近の不倫騒動のおかげで、うさんくさくて妖しくてこちらも素晴らしい。映画は、一体三隅は本当に殺したのか?殺していないのか?広瀬すずを守ろうとしたのか?それとも頼まれてやったのか?3度目の殺人って、誰が誰を殺すのか?などと、疑問が渦巻く。まんまと是枝監督の手中にはまって映画は終わる。もやもやもや・・・。ちょうどテレビで「そして父になる」をやっていた。あそこの福山雅治も今回の重盛もよく似ている。薄情で傲慢な男。そんな男が崩壊していくなかで、何かを取り戻していく。これが是枝監督自身が描きたい姿なんだろうな~っと、勝手に納得した。しかし法廷ものより、家族ものの方が、面白かったな。驕れる福山雅治が落ちていく様を見ていると下品だがある種の快感がある。福山君にはこれからも悪い役や嫌な奴を演じてほしい。そして、ゲスな私を救ってほしいと思う。

台湾 鹿港(ルーガン)観光(2017)

台中から小さなマイクロバスに乗って1時間で赤レンガの街ルーガン(鹿港)に到着した。台中の干城駅のバスターミナルで中鹿客運の乗り場を探した。バス停に一枚の紙が張ってあった。中鹿客運9018と。バス停周辺にいる人たちが、ありったけの日本語で私たちに説明を試みてくれた。台湾はこういうところが心にしみる。10分ほどでマイクロバスが到着。料金は95元。現金で支払う。鹿港(ルーガン)はお隣の彰化県にあり、清の乾隆帝の頃、18世紀の終わりには、台湾では台南に次ぐ第二の都市として栄えていたそうだ。狭いレンガ造りの道沿いにお店が建ち並ぶ老街を散策。土曜日だが人出はほどほどで、ブラブラして牛タンの形の牛舌餅など買い食いしながら歩くのが楽しい。九份も10年以上に前に訪ねた時はこんな感じだった。今ではすっかり台北からの人気日帰りスポットになってしまって、随分雰囲気が変わってしまった。鹿港(ルーガン)はその点、まだ消費されていなくて、のんびりしていた。最後に有名な肉まん屋さん(阿振肉包)で翡翠肉包(20元)を購入。龍山寺のベンチで頂く。美味しい、具もそうだが、外側のパンがなめらかで美味しい。帰りも同じ中鹿客運のバスに乗って台中へ帰る。最後まで乗っていた乗客は私たちだけだった。「どこまで帰るのだ?」と運転手に聞かれたようだったので、仕方なく運転手さんの横まで行って「火車駅」と書いたメモ用紙を見せた。運転の荒い運転手さんだったが、メモを見たら頷いて凄い勢いで駅に横付けしてくれた。台中に行く人は少ないのか、途中で出会った日本人はいなかった。言葉も通じなくて不便もあるが、異国を旅するのだから仕方ない。スマホのおかげで世界中がとても簡単に旅できるようになった。便利でいい。でも着実に何か失われてしまった。



ダンケルク Dunkirk (2017)

初日の劇場に行った。エヘン!臨場感ありすぎだと怖いのでアイマックスは止めて普通の劇場で見た。それでも桁外れの緊迫感。何度も鳥肌がたった。話題のクリストファーノーラン監督の新作。楽しみにしていた人も多いのだろう。劇場は男性が多い。お話は第二次世界大戦時1940年のフランスのダンケルクダンケルク大撤退(Dunkirk evacuation)として、ヨーロッパの人には馴染みのある話なのだろうが、私は全然知らなかった。ダンケルクの街は、ベルギー国境に近いフランスの海辺にある。目の前のドーバー海峡を越えれば、そこはイギリス。ドイツ軍が迫るなか、ダンケルクの海岸に英仏両軍の兵士は撤退脱出を待っている。その間もドイツ軍の攻撃は続く。防波堤から、海から、空から。それぞれの視点でこの脱出劇は語られていく。脱出を望む兵士たち。イギリスの船にはフランス人は乗せないという声。目の前の海を越えればホーム。イギリス側からダンケルクに救出に向かう民間の船。容赦なく降り注ぐ銃弾。沈没する船。海に投げ出される兵士。映像が鮮烈で、銃弾が我が身に降りかかるようだし、浸水していく水で息が詰まりそうだった。その一方で、映画の目線は冷静。見ていて生まれる戦争に対する感情は行方を失ってさまよう。人はこうした状況下ではただただ生きることに収束しホームを目指す。昨今、戦争がどんどん身近になっていくせいか、映画の中で死んでいく人間が自分になるかもしれない、近しいあの人になるかもしれないと、ぼんやりと想像した。映画の最後に埠頭に残った指揮官の言葉で少しホッとした。殺伐さの中で一条の光。やはり救われたいのだ。旬なクリストファーノーラン作品、見て良かった。

吉田博展 生誕140年 山と水の風景  東郷青児損保ジャパン日本興亜美術館

吉田博の存在はNHKの「日曜美術館」で初めて知った。明治から昭和にかけての風景画家。日本国内より海外での評価が高く、版画はあのダイアナ妃の居室に掛けられていたという。平日にも関わらず、新宿高層ビル上層階の美術館は中高年で一杯だった。なんだかなあ。展示作品数は多い。初期の水彩画が予想以上に良かった。湿り気を帯びた空気、なんともいえない風情。日本人が描く洋画だ。繊細なタッチがどこか日本画を思わせる。水彩、油彩、版画の作品の多くが風景画だ。裸婦像は一枚あったが、上手なのだが印象に残らない。吉田博は風景が好きだったのだろう。版画作品は同じ版でも摺りを変え、夜明け、午前中、午後と夜と、同じ絵で時間の違いを鮮やかにみせる。版画とは思えぬ精巧さと、あの水彩画で感じたみずみずしさが素晴らしい。緻密。彫りもそうだが、明暗の微妙さ、ここまで版画でするのかと感動する。吸い寄せられて張り付いて、遠ざかって感心する。海外の人が好むのも少し分かる気がする。というのも吉田博の版画には、日本人の持つ独特の暗さが希薄だ。良い意味でも悪い意味でも、明るい。吉田博もそうだが、外国暮らしが長かった人には独特の開放感が漂う。反対に日本在住歴が長い外国人は、どこか日本的な翳が出る。暮らした環境や時間が生来の色を覆っていく。しかし同時に、たとえ時間を重ねても消えない生来の色というのもある。良くも悪くもだ。

前野ウルド浩太郎 「バッタを倒しにアフリカへ」 光文社新書(2017)

表紙の人は著者だろう。緑の民族衣装にバッタの被りもの、手には虫取り網。バッタを愛して、バッタに食べられたいと願うバッタ博士のお話だ。アフリカで時折、大量発生して深刻な被害をもたらすサバクトビバッタ。その研究に、西アフリカモーリタニアに行ったバッタ博士の汗と涙の青春物語。文章はとても読みやすい。ポスドクの椅子取りゲームから異国で出会うさまざまなエピソード、そしてバッタの生態。ちょっと青臭いが素直で面白い。著者は人生の大事な転換期に、何も知らない途上国でいつどこで発生するかも分からないバッタの大集団に人生を賭ける。もうそれだけでワクワクする。著者が研究するサバクトビバッタ自体も面白い。体長は約5センチ。意外に大きい。何かのきっかけで何千万、何億匹という巨大な群れになり、大地を高速で移動していく。その姿は砂漠を這う黒い煙。バッタが通過した場所は草木が食べ尽くされ、農作物は全滅。2004年のモーリタニア周辺で発生したバッタ集団の農被害はなんと25億円。日本も3.3億円の資金援助をしたらしい。サバクトビバッタは単独でいるときは緑の大人しいバッタだが、集団になると、体色が変化して黒と黄色の凶暴なバッタになる。群れると体色も生態も変わるのだ。群集心理?群れると変わるのは人間も同じかも。遠い西アフリカのモーリタニアで、途方もないバッタ問題に挑むことは、京都大学の総長がいうように、その苦労はいかばかりかだし、感謝に値する。世界は広い。飛び出せる人は海を渡って翼を広げた方がいい。リスクはあるし、安定した老後は送れないかもしれない。でも見たこともない世界、想像だにしなかった自分を発見するかもしれない。たとえすべてを失ったとしても、人生は喪失と獲得の繰り返し。多くを得れば、多くを失う。持てる荷物には限りがあるのだ。さぁて、モーリタニア、ちょっと行ってみたくなった。

テオ・ヤンセン展 三重県立美術館

オランダの彫刻家テオ・ヤンセンのストランド・ビーストを見に行った。彫刻家と言っても作品は帆をつけた船の骨格のようなもの。オランダ語でストランドは砂浜、ビーストは生命体。テオ・ヤンセンが作った造語で、砂浜の人工生物体という意味だ。黄色のプラスチックの細い筒が骨格のように複雑に組み合わさっている。細い透明の管が血管のようにその骨格に張りめぐらされている。骨格のてっぺんには帆がある。帆に受けた風の圧力が管を通って骨格全体を動かす。無数の黄色の管で出来た足が次々と前と繰り出す。動きは「風の谷のナウシカ」のオウムだ。むかでのような足、大きな船のような帆、マンモスのような骨格が、潮風を受け砂浜で動きだす。海岸で風を集め、動き出す動画はなんとも奇妙だが美しい。動き出すと無機的な立体物が突然いのちを帯びるからだ。テオ・ヤンセンはアーティストに転身する前は物理学者だったらしい。風を動力に変換していく仕組みには緻密な計算があるのだろう。会場では実際にデモンストレーションがあり、ストランド・ビーストを動かしてくれる。動きは予想以上に速い。おおおお。ちょっと間近で見ると感動がある。立体作品は二次元の絵にはない広がりがある。その上、これは動く。ふしぎだ。「生きもの感」があるのだ。ビーストのひとつ、向かい合った1対の作品があった。首先が互いにシンクロして動く。アホウドリのペアが求愛しているみたいだ。風で動くストランドビースト、未来の生き物のようで、同時に大昔の生き物みたいでもある。「時」を突き抜けた「力強さ」とでもいうのかな。「いのち」というものも、案外そういうものなのかもしれない。

メアリと魔女の花(2017)

夏休みのシネコンは家族向けの映画で一杯だった。ジブリっぽいアニメが見たくてこれにした。スタジオポノックの長編第一作。監督は米林宏昌。声優陣は杉咲花神木隆之介など有名俳優陣で一杯。期待どおり開始早々の火事のシーンは良かった。花の種を持って女の子が逃げていくシーンはまさにジブリ。こういうのが見たかったのだ。しかしその後は低空飛行。結局は盛り上がらないまま終了。主人公メアリ・スミスもかわいくないし。ジブリっぽい登場人物やら背景やら一杯出てくるが、ストーリーが面白くないのだ。映画評では酷評されていた。なるほど。面白くなかったのは途中で眠ってしまったせいだけではないようだ。エンドロールに「感謝、高畑勲宮崎駿、鈴木敏男」とあった。ジブリが大好きな人たちが作った映画なんだなあと思えば、スタジオポノックのロゴがジブリそっくりなのも、出てくるキャラがジブリみたいなのも、仕方ないのかもしれない。ジブリっぽい映画が見たかったのは確かだが、こう言うんじゃないんだよな。