日本テレビ「今日から俺は!!」

今一番幸せにしてくれるのがこのドラマ。嶋大輔の「男の勲章」が疲れた心にしみる。やはり日本はなんのかんの言ってヤンキーの国。ツッパリのお兄さんがうようよいて、スケバンのお姉さんが長いスカートはいてないと。喧嘩と恋愛、そして友情、話は全然深くない。でも素直にクスクス笑ってしまう。あ~ホッとする。日曜の夜はこうでなくっちゃ。「下町ロケット」の阿部寛も吉川晃司もこっちに出て欲しい。朝ドラ「半分、青い」で親友ユウコちゃん役だった清野菜名も橋本環奈も、聖子ちゃんカットがかわいい。ブッチャーの矢本悠馬。彼はよく出ているね。バクテン出来る賀来賢人、何だかヌボっとかわいい伊藤健太郎。これが福田雄一がいうファミリー感なのか。加えてムロツヨシ佐藤二朗。「ヨシヒコ」福田雄一ワールド全開である。他愛もないドラマだか、他愛もないことが大事だ。大人になって何だか深刻ぶっているが、些細なことに本質はある。ケラケラ笑って週末は眠りにつきたい。その積み重ねが幸せの礎だから。

日本テレビ「獣になれない私たち」

「けもなれ」の脚本は話題の野木亜紀子さん。「アンナチュラル」の好印象を受けて「フェイクニュース」「けもなれ」と見た。「けもなれ」は「私は無理~」と友人は早々に脱落した。視聴率は低い。私は結構好きだ。新垣結衣松田龍平田中圭黒木華、イマドキの人気者が勢揃い。ガッキーはもはや何を演じてもいい。石原さとみと同じ。ガッキーが見たいのだ。田中圭は優柔不断なだめ男がいい。黒木華は嫌な女がいい。ガッキー演じる新海晶は、周囲の人間に気を遣い、最善を尽くしているうちに、身動きできなくなってしまう人。「しょうがないよね」をいい続けて、オリを溜めていく。「獣」にはなれないとはそういうことらしい。黒木華演じるシュリは元彼のマンションに居座るニート。この手の手に負えない若者がここ最近のドラマにはよく登場する。弱いんだか強いんだかよく分からない人たち。面倒くさい若者たちが増えたのか、誰もが皆、昔は面倒くさい若者だったのか。誰にもわからない。ただそんな面倒くさい人になった方が今はいいような風潮かも。黙って我慢するのはよくないらしい。そういうのは自己満足なんだって。まあいいか。それぞれの物差しでいけばいい。獣になっても、ならなくても。それにしてもガッキーの上司の社長がいいなあ。キレ方が格好いい。髪の毛がないのもいい。ハゲでカッコイイ日本人男性ってそうそういないし。山内圭哉ラブ。

有吉佐和子「華岡青洲の妻」新潮文庫(初版昭和46年)

何度もテレビドラマや舞台になっている作品だが、原作の本を読むのは初めて。時代は江戸時代後半。場所は和歌山紀州。麻酔薬をつくり外科手術を可能にした麻酔医華岡青洲と、その母と嫁の壮絶な女の戦いの物語。いやあ濃い話。嫁にもなれず、息子も持たない私は、さしずめ小姑の小陸。最後にその小陸に対して「嫁にも行かせず申し訳なかった」と謝罪する兄嫁に対して、小陸は「私は嫁に行かずに幸せでした」という。「兄」という男をめぐって、母と嫁が激しい戦いを繰り広げているのを目の当たりにして、嫁に行かずに本当によかったと言うのだ。兄嫁はそれに対して「いいえ、義母様は私を娘のように優しくして下さいました」といい、小陸はそんな兄嫁に、「それはお姉さんが、勝ったから言えることです」と言い放つ。こういう女の静かな戦いをさらーっと読ませる。さすか有吉佐和子、本当に面白い。勝ったからこそ謙遜する余裕。女はしたたかだからいい。今も嫁姑の世界は変わらず存在するのかもしれない。だが、人と人が触れあい、すれあう世界はいくぶん希薄になったように思う。摩擦で熱も生まれるが、角も取れていい案配になることもある。今は尖った心は傷つけられることもない代わりに、ずっと尖ったまま孤独に生きて行かなければならないのかもしれない。青州の妻、加恵は、母にいびられ、盲目になったが、我が身を犠牲にして夫を支えた妻として心豊かに晩年は過ごしたのだろう。戦いなくして勝利なし。やっぱり嫁に行かなくてよかったかも。私はやはり小陸の器だ。

遠藤周作「沈黙」 新潮文庫(初版昭和56年)

重いが面白かった。映画を見ているような感覚で一気に読んでしまった。江戸時代の初め、キリスト教が禁止された頃の話だ。それでもポルトガル人宣教師たちは、はるばる海を渡って日本にやってきた。やっとの思いで上陸した宣教師たち。信徒たちに保護されしばらくは隠れて暮らすが、やがて見つかる。宣教師はどんな拷問にも耐える気でいたが、殺されるのは自分を庇った信徒ばかり。宣教師たちは生かされ、奉行に「転べ」と繰り返し勧められる。信徒の殺し方は残酷。苦痛が長びくように、見ている人間の心が折れるようなやり方。棄教を勧める奉行たちは「ただ形式的に踏み絵を踏めばいいのだ。心の中では自由に思えばいいのだから」と言う。またキリスト教は「醜女の深情け」のようなもので、好かれた男はツライものだ。日本人は迷惑しているともいう。信徒が目の前で次々と苦しみながら死んでいくが、神は「沈黙」のまま。いよいよ宣教師の心が折れて「転ぶ」時に、神は眼前に現れて「我を踏め」と言う。う〜。鳥肌がたつ。作者遠藤周作はクリスチャンで有名だが、この結末はクリスチャン界では物議があったとか。アジアの東端に位置する日本では、キリスト教は届いたが、今は多くの人が面白そうな行事だけをマネしているだけ。キリスト教が骨の髄から入っている西欧諸国の人々とは違うのは仕方ない。信仰とは何か、神とは何か、信じるとは何か。秋は考える季節なのだね。

陰影礼賛 谷崎潤一郎 中公文庫(昭和50年初版)

古い本を読んでいる。だが中身は古びていない。時代を越えて、耳元で谷崎潤一郎が話しているような、ちょっと奇跡的な感覚を持つ。電車の中では特にそう感じる。この本が書かれた昭和の初めは明るい時代ではなかった。今ならLEDライトが隅々まで照らすが、明るい食卓や大きな窓は無縁、室内は昼間でも薄暗い世界だった。金箔を貼ったふすまも、金ぴかの仏壇も今見ると随分趣味が悪く思えてしまうが、薄暗い昭和の日本家屋の中では、格別な味わいを出す。金箔で模様を描いた漆器や、螺鈿細工を施した家具などは、暗い部屋のわずかな光を跳ね返して、なんとも言えない雰囲気を醸し出す。日本人の黄色い肌や歯だって暗闇ではそう悪くない。光は陰がある方が映える。光より闇の深さが人を落ち着かせることもある。それにしても谷崎の文章はよどみなく流れる。独特のリズムですーっと入ってくる。日本語本来のリズムってこれなのかも、と思う。西洋の文明を近代日本が取り入れたことで被る不利益は今も続く。西洋の言語を話す人々の考え出した理屈やら技術が世界を牛耳っているから、それを話さない私たちはいろいろ面倒なのだ。言葉は話せた方が便利だが、何でもかんでもありがたがる必要もない。明治から大正、昭和を生き「刺青」や「卍」などの独特の価値観の作品を発表してきた谷崎。自分の独自性を信じ、時代を越える作品を残した。好きな作家のひとりだ。

井上ひさしほか著 文学の蔵編 井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 新潮文庫(平成14年)

井上ひさしが亡くなって8年。すっかり存在すら忘れていた。この本は一関で開いた彼の作文教室の文庫化。井上ひさしにちゃんと教えてもらえば、私もうまくなるかなと思って読み出した。作文教室は原稿用紙の使い方から始まった。知らないこともたくさんあった。題のつけかたなど、さすが日本語の達人。指導は的確だ。読み終えて、ちょっと分かった気がしたが、それは錯覚だろう。でも文章を書く面白さを思い出した。何か書きたくなった。さすがだ。井上ひさし井上ひさしの舞台は何回か見ている。泣き虫なまいき石川啄木、頭痛肩こり樋口一葉と、今でも題名がすらすら出てくる。面白くて、切なくて、見終わったあとにしみじみ感じいる舞台だった。難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く。井上ひさしはまさに易しく深く面白かった。懐かしい気分も手伝って井上ひさしウィキペディアなどを読んでいると、DV問題が書いてあった。今だったら大問題だね。彼の舞台も、本も姿を消したかもしれない。それにしても暴力の告発はあとをたたない。暴力的な指導や人間関係の中で大記録や傑作は生まれているのかもしれない。暴力の被害にある人には1日も早く逃げてほしい。暴力にとりつかれた人は早く振り上げた手を下ろせる日が来ることを願う。弱い者が弱い者をたたく世の中が早く終わりますように。敵はその人じゃない。

カメラを止めるな(2017日本)ユーロスペース

話題の映画を見に行く。ゾンビ話に飽きた頃から展開して後半はケラケラ。低予算映画だけど話題になるはずだ。「安い」「速い」「仕上がりソコソコ」の監督という設定が笑えてしまう。今、社会に求められているのは、まさにそれ。お手頃値段でそこそこ満足。イケアやユニクロ的なものが、ここかしこで要求されるのだ。食べ物、洋服、労働力、創作の現場だってそうなっている。ちょっとヒドイじゃないかと思う。でも我に返って考えてみると、自分もそういうものでいいと思っているひとりだし。私自身がお手頃値段でそこそこの人間でもある。もう笑うしかない。だからカメラを止めるな?人生のカメラはまわりっぱなし。人生の映画にも映り込まない部分が一杯あって、助けられたり、我慢したり、涙したり、陰口たたいたり。裏側は結構忙しくて面白い。見える世界、出来上がったモノだけがすべてではないこと、自分が一番よく知っている。求められている世界は、実は求めている世界であり、誰かを叩けば、自分が叩かれる。因果応報?それでもこういう映画を見てケラケラ笑って、人生のコースを走り抜けたい。そして私が倒れても、カメラはまわり続けるのだ。