dele(ディーリー) テレビ朝日

深夜ドラマに豪華な俳優陣。最近こういうのが多い。これもそのひとつ。主演が山田孝之菅田将暉。前回は柴咲コウも出てきた。橋本愛が今回のゲスト。贅沢だね。ドラマは死後クライアントのデータを消去するという仕事をしている山田孝之と、それを手伝う菅田将暉という設定。山田孝之には何やら複雑な過去もありそうだが、まだ少ししか分からない。今回はある男の子が瀕死で入院中。その婚約者橋本愛が、データ削除を阻止しようとする。菅田将暉は死亡確認に訪れた病院で橋本愛に会い、瀕死の青年の実像にジョジョに迫っていく、という話。橋本愛がいいね。私の欲目もあるが、婚約者のことを一生懸命に話す様子がかわいくて、さびしくて。綺麗な顔だからちょっと冷たくて硬質なんだけど、それが不器用さになって伝わってくる。橋本愛の魅力はこのさびしそうな顔なんじゃないかと思ってしまう。ドラマはイマドキでは珍しく寡黙で、微妙なところは役者の表情だけで伝えたりする。出演者の豪華さもあって地味な作りが逆に高級感になっているかも。死んだら消したいデータはあるかなあ。大した過去もないし、死んでしまえば、あっという間に風化してなくなってしまう。実に軽い存在。それでいいのだ。大したことない人生がいい。生きていればこそ、恥ずかしい過去も恥ずかしい。死んだら全部さようなら。その日はちゃんと来るから、心配はいらない。

a-nation BoA , m-flo, 東方神起 in 東京味の素スタジアム

東方神起がヘッドライナーの夏フェス。当日の午後、突然ピンチヒッターで行けることになった。会場は9割女性。お目当ての東方神起は1930からだから、夕方のアリーナ席は空席が目立つ。日が傾くと場内は涼しくなった。あのBoAちゃんの登場。BoAちゃんは相変わらず、高音がきれいに伸びて気持ちいい歌を披露。黒いレースとショートパンツ。白い肌が色っぽい。まだ31歳だというのに、既に大物感?ベテラン感が凄い。あと15年したら桂銀淑になるな、これは。次はm-flo。リサは翌日のヘッドライナー浜崎あゆみみたいだった。そして、場内に赤いトーチが目立つようになると、東方神起が登場。場内のボルテージが一気に変わる。体感温度は3度くらい急に上がった気がする。初めて見る東方神起。凄い。みんなが好きになるのがよく分かる。少女から老女まで皆に愛されるフォルムとプロフェッショナルさ。愛されるエンターテイナーはまさに完璧なのであります。歌も上手い、踊りも凄い、そしてルックスも素晴らしい。日本語のたどたどしさも、彼らの好感度を上げるだけ。息子のようで、恋人のようで、兄のようで、弟のような、まさに理想の男性像を体現してくれている。偉大だ。どこまでもサービス精神が旺盛で、好きになるのも仕方ない。毎日のストレスも、日常のマンネリも憂さも、一気に解消させる力が彼らにはある。いやはや、人気のあるのには理由がある。リアルなバーチャル感に打ちのめされた夏の夜。まさに夢のごとし。

TAP WAVE 忘れ去られたBIG WAVE vol.3 秋葉原ライブガレージ秋田犬

友人がタップを習っている。誘われて生まれて初めてタップを鑑賞した。会場は秋葉原。久しぶりに来てみれば、街の様子がすっかり変わっていた。小ぎれいな秋葉原。どこにでもあるチェーン店のお店が一杯、もはや私の知っている秋葉原はない。マンションの地下、隠れ家のような小さな空間。タップは足元が見えなくてはと前から3列目に陣取る。最初は小さなステージにはみ出しそうなNY帰りの青年2人のタップ。さあ、始まった。かっこいい~。パワフル、クールで、ちょっと切なくて。次々現れるタップの達人たち。凄い人たちがこんなちっちゃいステージでやっていて、それをこんな間近で見られるなんて。誘ってくれた友人に感謝。その友人の先生リキさんはタイトなスーツ姿で登場。ハットを目深にかぶってた。見違えた。長い足から繰り広げられるリズムに心酔。映画のワンシーンだ。ステージ後半登場した、首藤さんというイケメン女性がこれまた素敵だった。中性的で韓流スターみたい。関西弁もキュートで、タップがこれまたカッコイイ。2時間シビれ通しだった。初タップ堪能。日本のタップダンスの未来、結構いいかもしれない。

広瀬浩二郎「目にみえない世界を歩く 「全盲」のフィールドワーク」平凡社新書(2017)

友だちに目の不自由な人がいるので買ってみた。著者は大阪にある国立民族博物館の学芸員。「触れる」展示に力を入れている。著者によると、そもそも視覚は一瞬のうちに大量の情報を伝えるパワフルな感覚らしい。そんなことに気付きもしない「見常者」は、視覚の長所にも欠点にも疎い。「見常者」とは、著者が使う言葉で、主に視覚によって物事を認識している人のことをいう。健常者という言葉に引っかけて、この本では、「見常者」「触常者」という言葉を使っている。さすが。視覚障害者は言葉を巧みに使う人が多い。「触れる」ことは直接的に心に響く。フォークダンスで手をつないだ男の子のことが突然好きになってしまうように。ハグしたり、握手したり、キスしたりと、何気なく他人と触れあう機会が多い国とは違って、ここ日本では満員電車でぴったりひっつくことはあっても、触れあうことはほぼない。無闇に触れてはいけないと教えられてきた分、触れるのは難しい。触れることで、認識する世界はある。触れることで伝わることがある。触れることでホッとすることもある。視覚以外の感覚に頼って世界を歩く著者のような人たちには、選択肢はない。触れないと仕方ない。確かに違う文化かもしれない。触常者は日々、見常者にはない苦労と喜びに遭遇している。ぶつかることなんて頻繁で、痛い思いもたくさんしてる。底知れない孤独な思いも人一倍、感じてもいるのだろう。多少強引で突っ走った感のある本だったが、それでも、著者の思いは、必要な光だと感じた。怖れず、ちょっと手を伸ばして、触れて、触ってみようかな。見常者の私も何かつかめるかもしれない。

植田正治写真美術館 「山陰にて」

米子の駅から20分ほど車で行くとある。大山がきれいに見える場所だ。灰色のコンクリートの建物がぽつんと緑の真ん中にある。写真家植田正治のことは福山雅治が好きだということで知った。テレビの日曜美術館でも取り上げられていた。少し時間が出来たのでやってきただけ。でも写真を見ていくうちに好きになった。鳥取砂丘を背景にしたモードな写真だった。ちょっとあざといなと思ったが、それ以上に洗練されていた。陰影の深い写真に心が動いた。鳥取の境港出身の植田正治はもともと画家になりたかったそうだ。山陰の風景をキャンパスにしたんだね。子どもたちの写真もよかった。昭和の懐かしい時間がそこにあった。でも古い感じはしない、今っぽい。見る人を微笑ませたり、微かにしみる写真たち。一枚一枚に植田正治の工夫や創意が凝らされている。どの写真にも音楽が流れていて映画みたい。館内のミニシアターの15分の番組が終わると、壁の前上部にある丸窓がレンズになって、外の景色が後の壁に逆さまに映り込む。きれいな大山がミニシアターの壁に現れる。走る車が逆さになって動く。ふふふ。面白い。2階の展示室の間にある大きな窓からも大山が見える。手前の水面に大山が映り込んで正面に座ると一枚の絵になる。フレームの大山の前でポーズを撮れば、そのまま植田正治風の写真になる。ふふふ、これも素敵。外に出て建物の前に座れば、またまた大山がきれいにおさまる。どこまでも写真を意識させてくれる。思いもかけず素敵な美術館だった。山陰。キュンと来る場所だったなあ。

テレビ東京「宮本から君へ」

主役宮本役は池松壮亮テレビ東京の深夜のドラマ。出演者が凄い。松山ケンイチ柄本時生蒼井優、ホッシャン(星田英利)。最近のテレ東のドラマは本気だ。スケールは小さめ。だけど中身は深い。そぎ落とし方が上手だと思う。今回の宮本の面白さは文句なく池松君、池松壮亮だからいいのである。純粋さと不器用さと大胆さをごちゃ混ぜにした、若い男の子のエネルギーを絶妙に演じている。暗い声の童顔がちょっと微笑むとキュンと来る。松山ケンイチの生ぬるい感じもいい。何かが落ちたね。良くなった。でもホッシャンがもっといい。あの年代の男性の悲哀もあるし、懐の狭さと深さを同時に感じさせる。ちょっといそうでいない役者になったかもね。青春の輝き。二度と取り戻せないから尊い。ドラマの池松君演じる宮本のエネルギーの不器用なぶつかり方は、誰もが抱く20代の胸の痛みみたいなものを思い出させる。傷だらけの心を抱えながら、みんな大人になって行く。痛みが消えたら、何か置いてきてしまったことに気がつく。浦島太郎の玉手箱だね。ああ、こんなに私は年をとってしまったのかと呆然とする。浦島太郎はじいさんになってからどのくらい生きたのだろうね。桐谷健太が心配だ。

 

夏目漱石「草枕」岩波文庫

20歳までほとんど本を読まなかった。黙読が苦手だった。目で追っても頭に入らないのだ。仕方がないから声に出さないで音読する。読む速度はカメだが、今は読書が出来る。高校生の夏休みに読む新潮文庫の100冊系はほとんど読んでいない。夏目漱石も読んだのは少しだけ。「草枕」の冒頭「智に働けば角が立ち」の有名な一節も、映画やドラマでよく引用されたから知っていた。高校生の日々から膨大な月日が流れた。たまたま手にした草枕。読むなら今だと思って読んだ。「先送り」する「先」がもうあんまりないからだ。草枕は私が思っていたような小説ではなかった。「こころ」や「それから」に近い小説だと勝手に思い込んでいた。読み始めたら面白くて楽しくなった。これなら漱石も好きかもと早合点までした。「非人情の世界」に身を置きたいと思う画工がいう。「小説など頭から読む必要がないのだ、気に入った場所をただ読めばいいのだ」と。うんうんと頷いた。長い文章が苦手な私には嬉しい話だ。鏡池の椿、ミレーのオフィーリアの絵、ゆるい脈略の中でどこにも辿り着く気もない小説を読んでいると、目の前に夏目漱石自身がウダウダ話をしているような気分になってくる。「これが新しい小説なのだ」とささやく。漱石研究からすると、草枕に書かれているさまざまなエピソードや題材から、当時の漱石が好んだものやら、考え方、晩年へと至る彼の思想の変化やらいろんなことが読み解けるのだろう。残念ながら私には無理だ。だが最後の場面で那美さんの表情に「憐れ」を見て作品が完成したというシーン。不思議な着地感があった。さすが文豪。全くの非人情でもまた生きづらいのよね。高校生から成長の止まった頭だけど、読む時間があるうちにもちょっと文豪に触れたいね。