井上靖「天平の甍」(1957)新潮文庫

亡父の書棚から持ってきた一冊。紙は日焼けしてすでに茶色い。昔の文庫本はこんなに字が小さく、行間も狭かったのかと驚いた。読み始めてすぐに引き込まれた。遣唐使船で唐に渡った留学僧の話である。造船技術も全くなかった遠い上代の頃、今ではあっという間に行けるお隣の中国だが、当時の「唐」は遠かった。辿り着くのも命がけ、日本に戻るのも命がけ。今の「留学」とは重さが違う。留学僧たちが唐に渡った時は20台前半、主人公の普照が帰国した時には、既に20年以上の月日が経っていた。留学僧の中には、大陸を放浪するもの、僧をやめ唐で家庭を持つもの、そして多くのものが海難で海に沈んだ。二度と日本へ戻らないものの方が圧倒的に多かったわけだ。高僧鑑真と共にやっと日本の地を踏んだ普照だったが、帰った日本では浦島太郎。すでに仏教界は変わっていて、奈良の僧侶たちよりも唐僧たちと寄り添ってしまう。長い艱難辛苦を共にした「年月」は嘘をつかない。夫婦だって、家族だって、少々仲が悪くたって一緒に過ごした時間が絆を生むのだ。歳月という大きな河とは対照的に刹那を生きる人間は小さな蟻だ。なんやかんか大騒ぎしても簡単に潰されてしまう。だからこそ仏法は栄え、人は祈り畏れ、すがる。鑑真は視力を失いながらも渡海を諦めなかった。まさに翻弄され痛めつけられた。だが揺るがない。たとえ蠢く蟻であったとしても、いや蟻だからこそ、「美しく」生きるのだ。井上靖はいいなあ。今年は奈良の唐招提寺に行きたい。

これぞ暁斎 This is Kyosai ゴールドマンコレクション  Bunkamura ザ・ミュージアム

河鍋暁斎を見に金曜日の夜に行った。同じことを考えている人が多いのか、予想以上に人がいた。カラスから始まって、動物、異人さん、お坊さん、鍾馗 春画、美人、最後に仏さまと続く。配列がいい。イスラエルの「ゴールドマン」所蔵らしい。トランプ大統領のお友達のゴールドマンかな。収集した作品群は素晴らしい。面白い絵、真面目な絵、恐ろしい絵、美しい絵、有難い絵など、さまざまあって、全く飽きない。楽しくて楽しくてにやにやして見た。画力も凄いが、なかでも構図が面白い、何より描きまくるエネルギーに感じ入った。暁斎は今の人気漫画家なみに描きまくっていたのだろう。今なら浦沢直樹の「漫勉」で創作風景を見てみたいものだ。会場の最後の仏さま群を見終わる頃には、おもわず手を合わせそうになった。なむなむ。大満足。表現する楽しさや喜びを思い出させてくれた。金曜日の夜、満ち足りた時間を過ごし足どりは軽い。やるせない気分や、イライラでトゲトゲしたことも、今は思い出せない。すさんだ心に染み入るアート、まさにプレミアムフライデー

クラーナハ展 Cranach 国立西洋美術館

ちょっと裸が見たくて、上野の世界遺産国立西洋美術館まで来た。お父さんと息子が同じ名前で画家をしているので、絵には父と書いてあったりする。どっちがどっちかよく分からないまま会場を進む。裸の絵は会場の下の方に配置されていた。最初からは見せない所存らしい。徐々に盛り上がってくると、媚びた少女にベロベロになっているオジサンの絵があった。若い娘にいいように操られて喜んでいる初老の男たち、操られる喜びだ。でもなんでこれを絵にしたのだろう。などと思いつつ、お目当ての裸の絵へ進む。裸の女は、細身だけど下半身はどっしり。妖しい眼差し。恍惚の表情。大きな剣を持って、首にはきらびやかな宝飾をまとっているのに体は裸。いやはや。クラーナハは完璧な写実もできたはずだが、あえて体のバランスを崩して描いている。成熟した女性の体と子どもの体が同居している。エロい。絵は思った以上に小さかった。寝室などに飾ったのだろう。クラーナハは絵もうまいが、商売も上手だったという。やりてだね。

マリメッコ展 marimekko  Bunkamura ザ ミュージアム

渋谷Bunkamuraマリメッコを見た。フィンランドのデザインハウスで、フィンエアーのデザインもマリメッコだ。白地に大きなピンクの花がべっとり広がる。それがいくつもいくつも途切れず布にプリントされていく。マリメッコの看板デザイン「うにっこ」だ。これが一番よく知られている。歴代のデザイナーには、日本人も何人かいたらしい。極東の人も仲間に入れる、自由闊達さがデザインの斬新さにつながるのかもしれない。「うにっこ」を眺めているうちに、ノスタルジックになった。遠い昔に着ていたワンピースの花柄や、広告の紙裏にクレヨンで描いていたお姫様が思い出された。今では失ってしまった、いや、まだどこかにしまわれているかもしれない(?)少女の私が反応している。振り返ると、もう遠すぎて小さくて見えない少女の私が無邪気にお花の絵を画用紙一杯に描いている。あの頃に帰ることはもう出来ないが、今でも花の絵をスケッチブックに描くことは出来る。ああ・・♪あの頃の君にあって、・・・今の君にないものなんてないさ・・・と。竹原ピストルが歌う。精神の根っこの部分は年齢を重ねてもたいして変わらない。と、今ならよくわかる。

ララランド La La Land(2016)

タイトルがいい。「ラ」が好きだ。ひとつ増やして「ラララ~」と油断していると、そのままステップを踏んでしまう。アカデミー賞を一杯取った話題のミュージカル。オープニングは、渋滞した道路の群衆ダンスシーン。入り口でいきなり袖を引っ張られたような感じ。夢を追いかける男女が一緒になり、やがて離れて、そして夢を叶えた時には、相手を失っているというお話。切ない。あの日、あの時、あの場所で・・・♪ と小田和正も歌っていたね・・・そう「たられば」。誰しも一瞬考える甘美な世界。音楽が終わって、ふたりはまた目の前の日常に戻っていく。大人になるということは、持てる荷物を選ぶことなのよね。最後はしみじみ。それにしても新作映画は心が躍る。新宿TOHOシネマはキレイだった。座席は広いし、飲み物は置けるし、最近はネットで座席も指定できるし、映画ってやっぱり楽しい素晴らしい。セバスチャン役のライアン・ゴズリングはなんと自分でピアノを弾いている。元々弾けたわけじゃないらしいからすごいぃ。彼がいいな。ダメなところとか、頑固なところとか、弱っちいところとか。人は欠点を愛するのだから。

0円キッチン Waste cooking(2015)

毎日たくさんの食材が捨てられている。そんな食材を使って料理しよう。廃油を使ってキッチンカーを走らせて、いろんな所へ行って、みんなの心に食べ物のこと、もっと考えようよ~!と訴える映画だ。最初は普通の料理だったが、最後は芋虫でハンバーガー作って食べていた。主人公のダービッドさんは、ジャーナリストでこの映画の監督をしている。オーストリア人でかわいい青年なので。前半は彼の魅力で楽しく見ていたのだけど、後半は飽きちゃった。芋虫ハンバーガーを積極的に食べる未来が来るのだろうかと思うと、若くなくて良かったと思った。毎日有り余るような食品に囲まれて暮らす生活の中で、見失ってしまうことは多いのだと思う。「いただきます」と手を合わせること。今日もつつがなく食事が頂けること。もう少し意識したいと思う。一呼吸おいて考えるべき日常は、有り余るほどある。

ブラインドマッサージBlind Massage 推掌(2014)

目の不自由な人の手引きをしたことがある。見えにくい友だちもいる。だが、見えないということがどんな感じなのかはいまもよくわからない。この映画は南京のマッサージ院に集まる盲人たちの世界を描いている。失った視力が戻らないと知った少年シャオマーが自殺を図る。この映画は血が噴き出すシーンから始まった。青年になったシャオマーは南京のマッサージ院で働きだす。むせるようなフェロモンを放つシャオマー。寮の二段ベッドが並ぶ部屋で、女性に襲いかかろうとする。部屋にいる同僚たちは皆、盲人。気配は感じていても何も見えていない。微妙な息づかいと蠢く男女を、スクリーンの前の自分だけが覗いている気分になる。見えなくて不便なことも多いが、見えないからこそ研ぎ澄まされる感覚もあるのだろう。見えることで失ってしまった感覚もある。視覚が持つ膨大な情報量でその喪失には気がつかない。映画の後半で美人マッサージ師のドゥホウが手を痛める。マッサージ院では働けず、やがてそこを離れる。同僚たちが静かにいたわる。喪失を経験した者同士が持つ慎みや暖かさのようなものを感じた。映画を見ても、見えない世界が分かったわけではない。だがちょっと安心した。そんなに遠い世界を生きているわけじゃないんだと思った。