小川洋子「博士の愛した数式」新潮文庫(平成17年)

先日NHK-BSで同名の映画を見たので読んだ。映画は主人公が深津絵里で、博士が寺尾聰。小説の雰囲気がそのまま映画になっていたし、配役もよかった。映画では大人になったルート吉岡秀隆が教壇で数学にまつわる話をするところから始まるが、小説では最後にルートが数学の先生になって終わる。80分しか記憶が持たない数学者とシングルマザーの家政婦とその息子という、不思議な関係の三人が、一生懸命互いを慈しむ話。すぐに記憶を失ってしまう博士は記憶を積み重ねることが出来ない。だけど、なぜかあふれんばかりの愛情を家政婦の息子ルートに注ぎ続ける。子どもは無限の愛情を受ける権利があるといわんばかりに。博士の不器用さがこの関係の肝でもあり、彼の病が3人の関係を重くさせすぎない。博士の記憶は阪神タイガースの江夏で止まっている。背番号は28。完全数の江夏は天才左腕で孤高の人でもあった。考えてみれば、プロ野球は数字の世界だ。数学者が野球好きというのもうなずける。第一回本屋大賞でベストセラーだったらしい。組み合わせの妙と、描かれた世界の暖かさが、ギスギスしがちな毎日のゆるめてくれる。さて、プロ野球は開幕。春はデーゲーム、夏はナイターを見て過ごす日常が、早くマスクなしでできますように。祈りは続くよ。どこまでも。

ちくま日本文学全集「宮澤賢治1896-1933」筑摩書房(1993年)

折角、宮澤賢治の扉を開いたのだからと、全集を読むことにした。巻末に井上ひさしが「賢治の祈り」と題して書いている。賢治の作品は、賢治その人自身と密接に結びついて読むものだと。年譜を読むと、花巻の商家の生まれだということ、二つ下の妹を失ったこと、仏教との関わりがあったこと、35歳で亡くなったことなどがわかった。賢治の生涯を考えながら読むと、確かに作品が一層鮮やかに立ち上がる。賢治の作品はわかりづらい言葉づかいが多々ある。我慢して読み進めていくと、漠としてはいるが、何がしかの像が結ばれてくるのが不思議がある。これが、井上ひさしが言う、「彼の作品は祈りである」とつながる。念仏の意味は分からないが、唱える心に祈りは宿る。自分の命を顧みることもなく、自らの思うことに従い、作品に祈りを込めた。人間ひとりの小さな祈りは今も読む人の心を照らす。神聖な灯火が心を揺らす。さて、現在の私たちの祈りは、一刻も早い疫病の終息だ。1日も早くマスクを外せる日を心待ちにしている。しかし、願いの先にあったのは聖火リレーだった。オリンピックというきらびやかなお祭りがもう何年も前から大金をつぎ込んだ虚飾一杯なイベントなのは知っていた。我が国もどうやら表沙汰に出来ない大金をつぎ込んで誘致したし、多くの人がそこに群がった。新型コロナウイルスの登場で、今、世界はいやおうなしに既存のルールを変えようとしている。どうなるかは誰にもわからないが、早く私たちの願いが叶いますように。心からそう願う。

 

「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(ポーランド・ウクライナ・英国 2019)

今どき2本立ての映画館があるなんて。時間もあったので「バクラウ」の後に見た。若きイギリス人ジャーナリストがスターリンの改革の暗部を公表するに至る話。残念ながら、ジャーナリスト魂やメディアのかっこよさが全く感じられない今、リアリティを感じないまま見終わった。とはいえ、よその国の話だと思っているが、幻のオリンピックが我が国にかつてない不況を呼び込み、私たちもそのうち木の皮をはいで命をつなぐかもしれない。最後には家族の肉を食べて生き残るかもしれない。甘えたことを言っていてはいけない。それくらい、国家は小さな命の存在なんかに興味はないし、正義も真実も軽く黙殺されてしまう。そしてコロナの抑え込めない我が国でオリンピックの聖火リレーが始まる。やめたらいいのに。本当にやだなあ。

「バクラウ 地図から消された村」(ブラジル・フランス 2019)

友人に誘われて見た。どんな映画だろうと、前日に検索したら、西部劇でスリラーとあった。全くイメージが出来ないまま映画館へ。ブラジルの片田舎のバクラウという村が消されそうになるのを、住民が阻止するというお話。想像以上に面白かった。西部劇というのも頷けるし、スリラーと言えば確かにスリリング度も高い。小さなコミュニティが自ら武装して戦う姿を見て、これからは政府に期待せず自主自衛自助だなあと思った。町のコミュニティは壊れているし、家族も崩壊、もしくは最初から存在しない現代。その上、お上はやりたい放題。ブラジルのことを笑ってはいけない。我が国ももう完全な機能不全。マジやばい。とはいえ、個人では大したことは出来ないと、なぜか最初から思っている私は従順な怠け者。必要なのは皆の声が聞こえる位小さくて、でも個々が戦う気満々の強い共同体。新しいコミュニティといえば、「にじいろカルテ」的な世界を思い出してしまうが、あれはあれでちょっと気持ち悪い。映画バカラウの村には、にじいろカルテの何倍ものリアリティがあるし。あそこには生命の原風景的な強さがある。私たちも戦う時が来ているのかもしれない。自分の船のオールを預けるな、って長瀬も昔歌ってたし。ぼんやりしていると、ワクチンの順番待ちの間に死んでしまうかも。さあ立ち上がれ。自分の生命は自分達で守れ。映画バカラウはそう訴えている。これは今見るべき映画だと思う。

夏目漱石「吾輩は猫である」(初出1905年~1906年)

115年前に出た作品。2021年に暮らす人間が何度も噴き出してしまった。時代を経ても生き残る作品。エリート偏屈の夏目漱石が博覧強記な知識と皮肉を存分に出している。近代小説というと、苦悩のイメージがあり、ずっと遠ざけていたが、これならいける。思いのほか長いが、当時から好評で連載がどんどん長くなったのかもしれない。そもそも楽天的に生きることを得意とする人間にとって深刻ぶったお話はあまり得意ではない。怒りも悲しみもひねってから出して欲しいのだ。最後に猫がちゃぽん。亡くなっちゃうのは悲しいが、猫の最後が存外あっけなくていい。人間の最後もあっけなくて、命というものはそういうものだと思わせてくれる。喪失の悲しみは残された者にだけ残り、死んだ方には旅立ちの爽快さがあるといい。死んだらいろんなことから解放されて、思う存分、自由になってほしいね。ゆっくりしてね。

芥川龍之介「羅生門」ちくま文庫『芥川龍之介全集Ⅰ』(1986年初版)

芥川龍之介の本は読みやすい。宮澤賢治梶井基次郎の次に読んでそう思った。文章に靄のようなものが全くない。冷徹な視点とでもいうのかなあ。私にはわからない。黒澤さんの有名な映画「羅生門」を見たことがあったが、本は読んだことがなかった。本は映画とは違う感動を与えてくれた。話の舞台は京都。飢饉や災厄が重なった時代に、羅生門で起こる一瞬の話。下人はもう盗人になるしか仕方がないくらいに追い詰められている。羅生門の二階に行くと、老婆が死体から髪を抜いている。老婆も追い詰められて死人から髪を抜いて売ろうとしている。死人から髪の毛を抜くなんて。でも、その老婆から着物を奪うなんて。自分は、下人か老婆か、どっちになるのだろうかと、ぼんやりお茶を飲みながら考えた。自粛生活で読書習慣が出来た。本を読んであとは誰とも話さずぼんやり過ごす。ひとりぼっちの高齢者ってこういう日常なのかと思う。以前のような生活にはもう戻れない。たとえワクチンが行き渡ったとしても。2年先か3年先かも分からない。その頃にはまた違う局面が待ち構えている。誰かの何かを奪いながら生きる世界に私たちは生きている。でもその実感はない。だからのんびり生きていける。何かを踏みにじるのも生きるため。生きることは最優先事項。我が身を差し出したカンパネルラになれればそれが一番かっこいいのだけど。それは自分の命への裏切りにも思える。命について考える、今は。それに向いている時期だ。

梶井基次郎「檸檬」十字屋書店(1933年初版)

無料電子図書で近代小説を読んでいる。さだまさしの「檸檬」が昔好きだったなと思い出し、今なら米津玄師の「Lemon」なんだよなと思いながら読んだ。短いからアッという間に終わってしまった。肺病を病んでいる青年が感じる心の揺れ動きと八百屋の店先で買った檸檬の色と質感が交差する話だ。感受性が低いとピンと来ないのだが、きっと良い作品なのだろう。作者は31歳の若さで亡くなっている。私小説というのか、この頃の小説は自分のことを描いたものが多い。当時はそういうことが普通で、勉強ができる裕福な青年たちは、書くことで自己を確立し、時代の最先端を行っていたのかも。今でいえば、単身NYへのアート修行という感覚なんだろうか。青年の心の動きはいつの時代も変わらない。鋭く繊細、でも甘い。誰もが心揺らめく甘ったるい世界を生きて、気がついたら通り過ぎている。周囲の若者たちを見て「ありゃま」と驚くことが多いが、きっと今「ありゃま」と驚かせている若者たちも、いつか菅さんや二階さん、内閣広報室の山田さんみたいな年齢の大人になる。一体そこに至る間に何を得て何を失うのだろう。檸檬の甘酸っぱい香りはもうしないし。米津玄師のLemonの張りつめた切なさも全くないのはたしかだね。