阿刀田高「殺し文句の研究」新潮文庫(平成17年)

阿刀田高さんのエッセイ集。比較的若い頃の作品が詰まっている。作品目録が巻末についている。売れっ子作家の阿刀田高さんは国会図書館勤務経験者。サラリーマン生活を経験しているせいか、読み手のすぐ近くにいる普通の人だという印象がある。重くならず、軽くならず、その絶妙さが職人技なのだが、読んでいる凡人にはよくわからず、ただ心地よい。殺し文句を言ったことも、言われたこともないが、きっと短いフレーズや、ふとした瞬間に、人は愛情を感じたりするものなんだろう。この人だと決めたら、周囲が何を言ってもどうしようもない。外野が騒げば騒ぐほど閉じてしまう。こうして始まった関係も、だたふとした瞬間に魔法はとけてしまう。永遠に続くかと思った日が嘘のように。これまたほんの一言で見える景色が色褪せるのだから、不思議なものだ。しかしたまには色褪せない関係もあるのだろう。はたまた色褪せなど気にしなくなるのかもしれない。親ならまだしも、他人は祝福しかない。おめでとうございます。末永くお幸せに。

 

佐藤愛子「九十八歳。戦いやまず 日は暮れず」小学館(2021年)

話題の本だったが、手に取ったのは初めて。佐藤愛子さんは今年で98歳なんだ。まさに生涯現役。女性セブンに連載しているものをまとめたらしい。字が大きい。98歳になろうとする作家の語る話はリアリティがある。老いを恐れてジタバタする時代もとっくに過ぎてしまったのだろう。面白い。前向きに生きるなんて、もはや意識にも登らないらしい。そもそも前向きに生きることは、誰かに強いられることではないし。ごもっとも。前向きポジティブ病は全くの大きなお世話で、メディアの勝手な期待に付き合う必要はない。それにそんな余裕もないらしい。1日ぼーっとしているか、この間のBSの養老孟司さんだって、結構ぼんやりしていた。筋トレしたり、フルマラソンしている高齢者の方が例外的なのだね。良寛の言葉を引用していたが、災いに遭うときに遭い、死ぬ時には死ぬのだから。とはいえ、こういう本を読んでしまう自分も、どこか前向きで元気な高齢者を望んでいるのだろう。自分もそうありたいと、どこか思っているらしい。本当に人間は、勝手なものだ。自由に生きて死ぬこと。なかなか難しそうだ。

 

ドライブ・マイ・カー(2021年)

やっと見に行くことができた。見られて良かった。3時間の長尺だが、もう一回見たい気もする。主演は西島秀俊。演劇の役者兼演出家の家福さんを演ずる。愛車サアブは赤くて多摩ナンバー。車が終始登場するこの映画、赤いサアブも重要な出演者だ。その車を運転してくれる運転手が現れ、家福さんは自分の車を運転してもらうことになる。話は面白い、ゆっくり丁寧に進む。映画の中に演劇があって、入れ子になった演劇がやがて外側の人間を覆い尽くす。ドライバーのミサキ、亡くなってしまう奥さんの音、音を知る若手俳優、そして家福さん。4人が奏でる演奏がどんどん高まり重なりクライマックスへと導く。カンヌ映画祭でたくさん賞を取ったらしい。脚本が特に素晴らしい。韓国手話の女優さんや、ミサキが連れて行ったゴミ処理場やら、映画の小道具が洒落ていて、そこから想像が広がる。向き合うべき課題に向き合い、苦しみ悲しみ、そして終わる。やがて死んでいく私たちそれぞれがこの瞬間に向き合うべき苦痛から避けられないこと。痛みを静かに受け止めること。映画は言っていたのかなあ。悲しみを抱え生きることから、始まる世界の可能性を告げているのか。すべてひっくるめて生きるというとらえようのない世界を受け止めろと囁いたのか。うまく言葉にはならないが。映画は素晴らしい。それは確かだ。

ヘミングウェイ短編集(一)大久保康夫訳 新潮文庫(昭和45年初版)

ヘミングウェイは大学の英語の授業で読んだことがある。当時、田舎の大学へ神戸から通っていた美人の先生は、ヘミングウェイなら、私たちでも読めると踏んだのだろう。「インディアン部落」はそのとき読んだ記憶がある。「キリマンジャロの雪」は、アフリカへ行く前に読んだ。本物のキリマンジャロを見る前に、未知の大陸への情報をひとつでも欲しいと思ったのだ。初めて行った海外旅行はアメリカで、キーウエストのヘミングウェイのお家にも行った。猫が一杯いて、お土産に猫のトレーナーを母に買った。ヘミングウェイにはいろいろと思い出があるのだ。甘い感傷を抱いて読んだせいか、ヘミングウェイは良かった。彼の文体は、男っぽい息づかいと、女々しくて繊細な男心がごちゃまぜになっている。話に登場してくる人はどこか崩れているし、何か欠けていたりして、物哀しい。だが、決して弱くはない。駄目なのに堂々としている。映画「ノマドランド」を見たときにも感じた何かが思い出される。これぞアメリカなのかしらん。コロナは収束を迎えることなく1年半が過ぎ、あと1年位はどこにも行けないような気がしてきた。絶望というより、クールダウンにはそれくらいかかるのだろうと思っている。世界も、日本も、個人も、経済的にも、地球環境的にも、倫理的にも、何か見直し転換すべき時期に必要な時間なのかもしれない。ヘミングウェイはそんな時には、程よく考えさせてくれて良かったなと思う。

 

立花隆「サイエンス・ナウ」朝日文庫(1996年)

「科学朝日」に連載中だったのが、1989年だったとすると、これは今から32年前の「サイエンス・ナウ」である。30年前の科学の最前線の研究を立花隆が紹介している本である。科学の研究自体は素人には難しすぎてよくわからないのだが、立花隆が非常にわかりやすく面白く書いてくれるので、こんな私でも投げ出さずに読めた。あの頃からすでに腸内フローラの研究は進んでいたし、ニュートリノはその後ノーベル賞をもらったわけだし、30年前の研究ですでにその片鱗をのぞかせていたわけだ。当時の日本は今のような三流国ではなく、お金も潤沢にあり、科学技術も世界一を競う場所に確かにいた。当時、これからの躍進が期待されていた分野も、30年たった今、話題にのぼることがなくなった話もあった。30年という「或る程度の長さを持った」年月で私たちはゆっくり崩壊したらしい。考えてみれば、30年間ほぼ物価も賃金も上がらなかった我が国。今では借金が膨らみ、コロナの防疫もできず、残念な国になっている。私はそこの住人で、国民。あ~あ。まあ、がっかりはさておき、立花隆は本当に素晴らしい書き手だ。今は誰がその代わりをしているのだろう。科学の面白さを伝えてくれる書き手に私はまだあまり出会えていない。ポスト立花隆がいたら、早くその人の本が読みたいな。30年前の最前線でも面白いし、その後の最前線を読んで、その違いにも触れてみたい。知的好奇心は刺激されると、頭が活性化される。これからの私に必要なのは知的活性化かな。

 

立花隆「マザーネイチャーズ・トーク」新潮文庫(平成8年)

先日お亡くなりになった立花隆さん。文春で特集されていたので読んでみた。この本は雑誌に連載された対談集をまとめたもの。今から25年前の本。対談相手がまた一流の方々で、その中で、河合雅雄さん、日高敏隆さん、多田富雄さん、河合隼雄さんは私も知っている。今の世界が、25年前からどのくらい進んだかどうかはよく分からないが、25年前の話でもとても面白く読んだ。立花隆という人がすごいのだろう。どの話も25年前の今が十分に意識され、その最前線を切れ味鋭く踏み込んでいく。読者の知的好奇心を引き出しつつ、研究者自身の人柄もにじみ出てて、一瞬、研究者という生き方に憧れてしまった。世の中知らないことばかりなのに、よくこの年まで生きてきてしまった。それだけ平和だったし、守られた存在だったのだろう。もう守ってくれる人はいないけど、誰かを守ってあげることは出来る。誰かを思いやることで自分の居場所を探す旅、これからはそれかなあとぼんやり思った。

星新一「宇宙のあいさつ」ハヤカワ文庫(昭和48年初版)

この本もショートショート。これが一番気に入った。やっと星新一に慣れたのかもしれない。慣れる前に諦めなくて良かった。多少の我慢が悦楽への道。大きく飛ぶ前は低くしずむだ。世の中の事象は見方を変えれば、悲劇は喜劇で、その逆もあり。とかく自分の不幸にばかり目がゆくが、宇宙からみたら、塵のひとつにもなれない我が身。存在価値などそもそも塵にあるのだろうか。気が滅入る夜に読めば、自暴自棄を突き抜けた破茶滅茶な世界に至る。世界が私を拒絶するのではなく、拒絶に私が愛されただけなのだ。死ねば苦しみも終わると勘違いするが、そうではない。延々に砂時計を表示したままスタックするパソコンのように、苦しんだまま永遠に漂うような気がする。ちゃんと終わりまでいかねば。すっかり涼しくなった季節のせいか、秋は物思いに浸りやすい。在宅生活のおかげで読書が進む。たまには、普段読まない本を読んで、新しい世界を見てみることもそう悪くない。なんだかすべてが違う物にみえるかもしれない。