「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(ポーランド・ウクライナ・英国 2019)

今どき2本立ての映画館があるなんて。時間もあったので「バクラウ」の後に見た。若きイギリス人ジャーナリストがスターリンの改革の暗部を公表するに至る話。残念ながら、ジャーナリスト魂やメディアのかっこよさが全く感じられない今、リアリティを感じないまま見終わった。とはいえ、よその国の話だと思っているが、幻のオリンピックが我が国にかつてない不況を呼び込み、私たちもそのうち木の皮をはいで命をつなぐかもしれない。最後には家族の肉を食べて生き残るかもしれない。甘えたことを言っていてはいけない。それくらい、国家は小さな命の存在なんかに興味はないし、正義も真実も軽く黙殺されてしまう。そしてコロナの抑え込めない我が国でオリンピックの聖火リレーが始まる。やめたらいいのに。本当にやだなあ。

「バクラウ 地図から消された村」(ブラジル・フランス 2019)

友人に誘われて見た。どんな映画だろうと、前日に検索したら、西部劇でスリラーとあった。全くイメージが出来ないまま映画館へ。ブラジルの片田舎のバクラウという村が消されそうになるのを、住民が阻止するというお話。想像以上に面白かった。西部劇というのも頷けるし、スリラーと言えば確かにスリリング度も高い。小さなコミュニティが自ら武装して戦う姿を見て、これからは政府に期待せず自主自衛自助だなあと思った。町のコミュニティは壊れているし、家族も崩壊、もしくは最初から存在しない現代。その上、お上はやりたい放題。ブラジルのことを笑ってはいけない。我が国ももう完全な機能不全。マジやばい。とはいえ、個人では大したことは出来ないと、なぜか最初から思っている私は従順な怠け者。必要なのは皆の声が聞こえる位小さくて、でも個々が戦う気満々の強い共同体。新しいコミュニティといえば、「にじいろカルテ」的な世界を思い出してしまうが、あれはあれでちょっと気持ち悪い。映画バカラウの村には、にじいろカルテの何倍ものリアリティがあるし。あそこには生命の原風景的な強さがある。私たちも戦う時が来ているのかもしれない。自分の船のオールを預けるな、って長瀬も昔歌ってたし。ぼんやりしていると、ワクチンの順番待ちの間に死んでしまうかも。さあ立ち上がれ。自分の生命は自分達で守れ。映画バカラウはそう訴えている。これは今見るべき映画だと思う。

夏目漱石「吾輩は猫である」(初出1905年~1906年)

115年前に出た作品。2021年に暮らす人間が何度も噴き出してしまった。時代を経ても生き残る作品。エリート偏屈の夏目漱石が博覧強記な知識と皮肉を存分に出している。近代小説というと、苦悩のイメージがあり、ずっと遠ざけていたが、これならいける。思いのほか長いが、当時から好評で連載がどんどん長くなったのかもしれない。そもそも楽天的に生きることを得意とする人間にとって深刻ぶったお話はあまり得意ではない。怒りも悲しみもひねってから出して欲しいのだ。最後に猫がちゃぽん。亡くなっちゃうのは悲しいが、猫の最後が存外あっけなくていい。人間の最後もあっけなくて、命というものはそういうものだと思わせてくれる。喪失の悲しみは残された者にだけ残り、死んだ方には旅立ちの爽快さがあるといい。死んだらいろんなことから解放されて、思う存分、自由になってほしいね。ゆっくりしてね。

芥川龍之介「羅生門」ちくま文庫『芥川龍之介全集Ⅰ』(1986年初版)

芥川龍之介の本は読みやすい。宮澤賢治梶井基次郎の次に読んでそう思った。文章に靄のようなものが全くない。冷徹な視点とでもいうのかなあ。私にはわからない。黒澤さんの有名な映画「羅生門」を見たことがあったが、本は読んだことがなかった。本は映画とは違う感動を与えてくれた。話の舞台は京都。飢饉や災厄が重なった時代に、羅生門で起こる一瞬の話。下人はもう盗人になるしか仕方がないくらいに追い詰められている。羅生門の二階に行くと、老婆が死体から髪を抜いている。老婆も追い詰められて死人から髪を抜いて売ろうとしている。死人から髪の毛を抜くなんて。でも、その老婆から着物を奪うなんて。自分は、下人か老婆か、どっちになるのだろうかと、ぼんやりお茶を飲みながら考えた。自粛生活で読書習慣が出来た。本を読んであとは誰とも話さずぼんやり過ごす。ひとりぼっちの高齢者ってこういう日常なのかと思う。以前のような生活にはもう戻れない。たとえワクチンが行き渡ったとしても。2年先か3年先かも分からない。その頃にはまた違う局面が待ち構えている。誰かの何かを奪いながら生きる世界に私たちは生きている。でもその実感はない。だからのんびり生きていける。何かを踏みにじるのも生きるため。生きることは最優先事項。我が身を差し出したカンパネルラになれればそれが一番かっこいいのだけど。それは自分の命への裏切りにも思える。命について考える、今は。それに向いている時期だ。

梶井基次郎「檸檬」十字屋書店(1933年初版)

無料電子図書で近代小説を読んでいる。さだまさしの「檸檬」が昔好きだったなと思い出し、今なら米津玄師の「Lemon」なんだよなと思いながら読んだ。短いからアッという間に終わってしまった。肺病を病んでいる青年が感じる心の揺れ動きと八百屋の店先で買った檸檬の色と質感が交差する話だ。感受性が低いとピンと来ないのだが、きっと良い作品なのだろう。作者は31歳の若さで亡くなっている。私小説というのか、この頃の小説は自分のことを描いたものが多い。当時はそういうことが普通で、勉強ができる裕福な青年たちは、書くことで自己を確立し、時代の最先端を行っていたのかも。今でいえば、単身NYへのアート修行という感覚なんだろうか。青年の心の動きはいつの時代も変わらない。鋭く繊細、でも甘い。誰もが心揺らめく甘ったるい世界を生きて、気がついたら通り過ぎている。周囲の若者たちを見て「ありゃま」と驚くことが多いが、きっと今「ありゃま」と驚かせている若者たちも、いつか菅さんや二階さん、内閣広報室の山田さんみたいな年齢の大人になる。一体そこに至る間に何を得て何を失うのだろう。檸檬の甘酸っぱい香りはもうしないし。米津玄師のLemonの張りつめた切なさも全くないのはたしかだね。

宮澤賢治「注文の多い料理店」新潮文庫(1990年初版)

宮澤賢治第2弾。短い童話だったのであっという間に読んでしまった。絵本で読んだことがあったが、最後は覚えていなかった。記憶は曖昧だね。ふたりの猟師が山で迷う。お腹がすいていたので見つけたレストランに入る。靴を脱げや、クリームを塗れなどの注文を受け、最後には自分が料理されることに気づく。昔話や童話のたぐいにはゾッとする怖さがある。子どもはそもそも残酷だ、とういより子どもはそれを隠さない。虫一匹殺さぬ顔をしていても、私たちはたくさんの命を日々食べて暮らしている。残酷な一面も私たちの日常なのだ。まだ2冊だが、宮澤賢治が今も人気があるのはよくわかった。寒さ厳しい岩手の内陸で暮らしていた賢治。あの時代に賢治が見た世界を想像してみる。私たちが今感じている閉塞感と多少通じるものがある気がする。想像の翼を広げて世界を見つめていると、世界はどこまでも広がる。一方、大きな街にいても自分の周りの世界は狭く窮屈なことも多い。あの震災から10年。私たちはどう変わったのだろう。いろいろ考える季節がまた来た。

宮澤賢治「新編 銀河鉄道の夜」新潮文庫(1989年初版)

読むものがなくなったので、無料の電子書籍を読んだ。少し前に宮沢賢治の故郷岩手県にも行ったし、アニメや映画で読んだ気になっていたけど、宮沢賢治の本をちゃんと読んだことなかったし。「銀河鉄道の夜」は、ジョバンニとカンパネルラのふたりの子どもが電車に乗って旅をする。銀河をゆく列車は不思議な出会いと幻想的な風景を繰り広げていく。やがて列車から降り、現実に戻ると、ジョバンニはカンパネルラの死に出会う。カンパネルラは誰かを助けて川に飛び込んでいた。若い頃は賢治の口調が読みにくくて途中で投げ出していた。今も読みにくいが、この読みづらさがかえって想像力を喚起しているのかもしれない。岩手に宮澤賢治の童話村なる場所があった。メルヘン感は苦手なのでゆっくり見なかった。人工物が多すぎたせいかもしれない。感性の鋭い子どもたちや、豊かな感受性を持った人なら、小さな草むらひとつで賢治の世界に行けるはず。でも、あそこで星空眺めたらいいだろうな。今ならそう思える。ソフトで優しいイメージの宮澤賢治だが、実際読むと柔和ではなく、迫りくる激しい沈黙のようなものを感じる。優しい声や楽しい音ばかりに踊らされているといけないね。怖いところに連れて行かれちゃうね。ちゃんと耳を澄ませて、目を見開いて、悪い奴らに勝手をさせてはいけない。