東京バレエ団 子どものためのバレエ「ねむれる森の美女」めぐろパーシモンホール

友人のお嬢さんが出演するというので見に行った。目黒区にある東京バレエ団が毎年行っている夏のイベントらしい。子ども向けとあって客席にはたくさんのお嬢ちゃんとママがいる。始まってすぐに泣きだす子どもがいたりして、お母さんは大変である。平身低頭ペコペコしながら席を立つ。わかりやすく華やかな舞台で、久しぶりのステージというのもあって楽しかった。出演者は日本人ばかりだが、最近はスタイルの良い人が多いなあと感心。友人のお嬢さんも手足の長くて9頭身、美しくて見とれてしまった。コロナ禍で海外で活動していた日本人ダンサーたちもたくさん東京に戻ってきているらしい。こんな時期だが、有望なダンサー達にできるだけ多くの活躍の場が与えられることを祈る。バレエは以前は限られた子女だけが学ぶことを許された芸能だったが、今ではある程度の余裕のある家庭の子女にも開放された。母親の夢が娘の夢になり、美しくも厳しい世界で鍛錬を続ける娘とそれを支える母。母子の物語はダンサーの数だけ存在するのだろう。傍目では分からぬ苦労も多いらしいが、だからこそ得られる果実も甘いのだろう。人生の後半は誰かを応援して生きるのが楽しい。たとえ我が子がいなくても、誰かを応援して、自らの生きるエンジンにする。生きていても仕方ないと思う気持ちが年を重ねる度に強くなる。自暴自棄の穴に陥らないよう、機嫌よく生きていかねば。

阿刀田高「ギリシア神話を知っていまか」新潮文庫(昭和59年初版)

昔読んだはずだが、何一つ覚えていなかった。面白かったという記憶がある。今回読んでもやはり面白かったし、内容ももう思い出せない。何ということだろう。作者の名前はてっきりペンネームかと思っていたが、本名らしい。珍名字の阿刀田さんのギリシャ神話は、有名どころの登場人物の話を分かりやすく面白く語ってくれる。イラストは和田誠さん。飄々とした絵と文章がぴったりあっていて洒落ている。軽みがあって、今読んでも古びていなし、センスの良さが光る。素人に優しい文体は、ギリシャ神話への深い理解と広範な知識があってのこと。本物の知的な人はやはりカッコいいなあと思った。遅ればせながら、本を読んで、自分もすかすかの頭脳を活性化している。今では非常に定着が悪くて、入れたはなから消えていくのだが、そんなことは気にしていられない。これだけ家にいることを奨励されている今だからこそ、ゆっくり本の世界をさまよい、楽しみたい。今度知らないどこかの街を歩く、ふとした瞬間に今読んでいる本のことがちらりと思い出せれば大成功。今はその伏線をはろうかと、無闇矢鱈に読書する。心は遠くエーゲ海。いつか行けることを祈って。

 

シェークスピア・中野良夫訳「ロミオとジュリエット」新潮文庫(昭和26年初版)

古い文庫本。値段は200円。はじめて買ってもらった文庫本かも。ただ読んでなかった。当時は難しくて読めなかった。有名な戯作だから、舞台や映画では何度も見ている。戯作を読むのはまた違った味わいがあった。訳者が最後に、マキューシオと乳母の人物像の描き方が天才的に素晴らしいとあった。確かにこの2人の騒がしい存在が話を盛り上げていたし、対照的に、若い男女のひたむきな純愛がきれいに悲劇に繋がったのかもしれない。お芝居は好きだけど、子どもの頃は、本を読むことが苦手でほとんど読めなかった。国語の授業もダメ。教科書も全然興味そそられず、唯一読めたのはシェークスピアの戯作だった。確か5年生の教科書には「リア王」が載っていた。今でも役柄をあてて読み分けしたときの楽しさを覚えている。セリフを読むときの高揚感。シェークスピアのセリフの面白さは、清らか力強くて、甘くて下品で、鋭くて高雅で、とにかくお喋り。どこに向かっていくかわからないジェットコースターに乗っているみたいな面白さがあった。コロナですっかり悪者にされてしまった演劇だけど、演劇の魔力にまたかかりたいと思う。それがかなうまでは、いましばらく、本の世界で妄想するだけだけど。

 

諸井薫「男女の機微」中公文庫(1989年)

バブル期の本をまた読む。諸井薫さんは出版社の編集者だったようだ。名前は小説を書くときのペンネームらしい。今世紀初めにはお亡くなりなっている。30年前のこの本を読むと、いかに時代が変わったかがよくわかる。雑誌の編集者といえば、当時の最先端の職業の人なのだが、今読むと、親の世代の人と話している気分になる。ただこの時代はこれが一般的な考えだったなあと懐かしく読んだ。上司と若い女性との不倫関係を描いた短篇のいくつかは、男性の幻想が強くて辛かった。このころは女性の地位は今よりずっと低く、まあ、今でも日本では低いのだが、女性はそういうものだとされていた。格段抑圧を感じなかったのは、そういうものだと教育されたのと、バブルで経済が潤っていたからかもしれない。今では嘘のようだが、日本という国には力があった。景気は右肩あがりでみんなイケイケだった。好調の日本経済を支える日本男性たちも幸せだったかもなあと思う。世の中は30年ですっかり変わってしまった。良くなった面もあり、悪くなった面もある。男女の機微は本質的なところで変わらないところもあるが、今では男女という2項対立的に考えることさえ、正しくないとされる。パラダイムシフトというのだろうか、物事の考え方自体に変化が起きてしまった。新しい方がいいというわけでもないし。昔がいいわけでもない。どの時代にも生きづらさは形を変えて存在する。それでも何とか、生きているうちはできるだけご機嫌でいたい。そして、その時が来たら静かにいけると、なおいいな。

藤村由加「人麻呂の暗号」新潮社(1989年)

バブルの頃の本である。万葉集歌人柿本人麻呂の歌を古代の中国語と韓国語から読み解き、隠された意味を探るという本。多言語を操る人たちが書いていて、前半は面白いと思ったが、後半は疲れてしまった。読み進めても話が深まらないからだ。そのうち解釈の仕方がだんだん嘘っぽく見えてきてしまった。でも着眼にはとても心ひかれた。万葉集と一言で言っても200年くらい期間の歌をカバーしていると考えると、江戸時代から現代までの歌という指摘は新鮮だった。長い歴史の中を言語もくぐり抜けてきている。中国語と韓国語と日本語、底流では同じ流れを持っていても何ら不思議はない。今では国境を閉ざしているが、昔から行き来が盛んな地域なのだから。いつか行けるようになったら、隣国をゆっくり見て回りたいなあと思う。そこには遠い異国にはない、何か懐かしい景色があるのではないかと思うのだ。年齢を重ねるとアジアに回帰すると、外国かぶれの先輩が言っていたが、確かに自分もそうなってきた。そしてそれが実に楽しそうなのだ。出かけれられる日が来るのを楽しみに。それまでにじっくり勉強を重ねておきたい。

 

水上勉「良寛」中央公論社(昭和59年)

良寛というと、子どもと遊んでいるお坊さんのイメージがあった。禅宗曹洞宗の僧侶だった。良寛さんの字は人気がある。細い線だが、芯のしっかりした字。空白がゆったりとして優しげな印象がある。そのせいで良寛さんは心の優しいお坊さんだと漠然と思っていた。しかし当然だが、それだけではなかった。この本は良寛について書かれた文章を集め、そこから水上勉良寛の生涯を探ろうとしている。水上勉の本も初めて読む。名前の字面がどことなく湿っぽくて遠ざけていた。この本は、引用文が多く、研究論文のようで私には難しかった。良寛自体の歴史的資料の少なさを補うためか、資料が原文でたくさん出てきて辛かったが、当時の背景はよくわかった。江戸時代も低迷衰退期に入った時代に良寛は生きた。名主の跡継ぎたったが、自ら捨てて、放浪し乞食僧となって生きた。文芸に心酔し、生きる姿それ自体が禅の世界だった。良寛の家族は彼自身を含めて世渡りがうまくいかなかった。ただ文芸の血だけが父、良寛、弟由之に脈々と流れていたらしく、多くの歌を残していた。読み終われば良寛は天真爛漫ではなく、一切の世俗から離れて暮らす頑固さと、ひたすら芸術に没頭した人になっていた。絶対的弱者に自らを置くことで、世の中の濁った水から離れようとしたかのように。そしてあの字になったのだ。俗にまみれた字は覚悟がつかない証拠。間違いに気づきながらも止められず、今日もぼんやりとオリンピックを見ている。

 

石川九楊「現代作家100人の字」(平成10年)

20年前の本なので、既に「現代」ではないのだが、そんなことは気にせず、石川九楊の本を初めて読んだ。時々毛筆を書いている人間なので、名前だけは知っていた。石川九楊が百人の有名人の文字を見て、色々書き綴っている。字の書き方、形、配置などからの分析と表現力の巧みさに驚嘆した。書の歴史も、現代の書の現状も深く知った人が語る書の終焉。大変納得させられた。その後20年たった現代。筆書きからペン書きになっただけではなく、手で文字を書くことさえ消えていきそうだ。瀕死。ヤンバルクイナは保護しようとする人たちはいても、「手書き」を守ろうという人はいない。そういう私も手書きの手紙などほとんど書かない。しかし、文字を手で書いて綴ることは、思っている以上に総合的な能力が必要だ。もう私は半分出来なくなっているし、筆文字なら宛名だって書けやしない。筆書きからペン書きに移った時に失った能力も大きいが、手書きを喪失しつつある私たちもまた大きな何かを失いつつある。表意文字を使う我が国は、手書きが特に必要なのではないかと、私は勝手に信じている。このままでいいのだろうか。ツシマヤマネコ並みに「手書き」も保護しないといけないのではないだろうか。相変わらず他人頼りなのだが、こうやって漫然としているうちに、私たちはどんどん失ってきた。そして今も喪失の途中。本当に私たちは失ってみないとその有難みに気がつかないやうにできている。気がつけばとんでもない世界が私たちを待っているのかもしれない。その予兆は既にそこここにある。ああ、怖い。