坂元志歩著・大阪大学蛋白質研究所監修「いのちのはじまり いのちのおわり」化学同人(2010年)

友人の著書。発売当時に購入したのだが、難しすぎて放置してあった。ここ最近の読者習慣のおかげで今なら読めるのではないかと思い頑張った。あらためてこんな難しい本を書いた友人を尊敬した。多少なりとも内容が理解出来たことも嬉しかった。自分が生まれた偶然性や、地球の歴史から見た我が身のちっぽけさや、体内の小さな細胞ひとつに潜む無限の謎など、何重もの入れ子構造を見るような話だった。タイトルの意味も読み終えてやっとわかった。いのちのおわりまでに読めてよかった。『今、分からないことも、時を経ると分かることがある。分からないのは準備が足りないだけ』と、大学時代の先生に言われたことを思い出した。いろんな事がある日突然つながるのは嬉しい。今は役に立たないこともある日何かの大事な部品だったと気づくことがある。私の存在も、職場でも家庭でも大した役にはたっていない。でもそれでいいのだと思った。価値は自分で決めなくていいし、ましてや他人に決めてもらうことでもない。それがこの本を読んでよくわかった。著者である友人に会いたくなった。

コッホ先生と僕らの革命(2011年独)

ドイツ映画。第一次大戦前の古臭い体質の学校が舞台。イケメンの英語教師コッホ先生がサッカーを通じてガチガチに躾けられていた子どもたちを解放、成長させていく話。コッホ先生はドイツにサッカーを紹介した人らしく、「サッカーの父」とも言われているらしい。そのコッホ先生が魅力的で、卑屈だった子どもたちがサッカーを通じてみるみる変化していくのは痛快。革工場の太っちょの少年が特にいい味を出していた。全体的によくある話だが、幸せな気持ちになる映画である。古い体制を壊して自由を手に入れると、今度はその本人が古い体制になっていくことがある。校舎の窓を割ってバイクを乗り回していた人は、早々に保守化するし、そもそも良家の子女が暴れていたりする。持たざる者の怒りの声は、本当は違う誰かから発せられる。そんな皮肉なことが巷に溢れている。なんだかやる気を失うような流れが私たちを取り囲む。では、どうするべきなのだろうか。答えは簡単に出ない。ただ強くなるしかないのかなあ。それが最適解のような気がしてくる。強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。誰かの言葉が聞こえてきた。

「ふしみ御殿あつらへ」小袖裂と復元小袖 丸紅ギャラリー

日曜日は閉館だったので仕方なく平日の昼間に来た。頂いた招待券で初めて丸紅のビルに入った。ここで働くエリート社員の人たちはどんな人生を歩んできているのだろうかと想像を膨らませながら会場へ。長い廊下は片側に丸紅の歴史が説明してあった。その奥に展示室。真っ先に目に飛び込んできたのは、だいだい色の着物。よく見ると上前と下前の模様が違う。よく見ないとわからない微妙な仕掛けがおしゃれ。この着物の成立過程が丁寧に段階を追って再現されていた。オーディオカイドをきけば、有り難さがもっとよく分かったのだが、残念ながら時間があまりなかった。墨字書きが残っている着物や、着物の切れ端を眺めていたらあっと言う間に展示が終わった。ギャラリーだし、こんなものかもしれない。丸紅には、室町の着物が現存するのかとぼんやり思いをはせた。そういえば何年か前に行ったお茶会でも、室町の茶碗を見せて貰った気がする。あるところにはあるものだ。何もないはずの我が家には物が溢れている。物の価値とはなんだろう。全部捨ててもいいような気さえするが、そしたら自分も要らない気がしてくる。いけない。いけない。極端な思考は人を幸せにしない。はい。今日も頑張りましょう。

中平卓馬 火 氾濫 国立近代美術館

予定がなくなり、竹橋で時間が出来たので、見に行くことにした写真展。亡くなって9年ほど経つ中平卓馬さんという写真家の回顧展。予備知識ゼロで、名前さえ知らずに入ったら、モノクロでピンボケか、アートなのか、よくわからない写真が一杯だった。これが氾濫なのか。火なのだろうか。雑誌がたくさん並んでいたのは、中平さんが雑誌の編集者から写真家になった人だったからだ。前半はモノクロの挑発的な作品が並び、後半はカラーのしっかりした作品になる。激変したのは中平さんが昏倒したせいらしい。彼に何が起こったのか、思想の流れがどう転換したか、私にはわからなかった。ただ、写真と文字が一緒になって、何か強烈なメッセージを発していたのだろうと想像する。雑誌の時代だったし、彼も時代を牽引する人のひとりだったのだろう。社会に物申すことが大切で、強く心を揺さぶるものが芸術だとあの頃は思っていた。今はそんな風には思わない。もう少し静かで地に足がついているものにひかれる。奇しくも中平さんの写真もそんな変遷かと勝手に想像しながら写真展を見た。最後の方にビデオの展示があった。顔をくしゃくしゃにしながら楽しそうに写真を撮っていた中平さんがいた。なんかいいなぁ~と思った。私もこんな笑顔で行きたいなあと思う。

ライオン 25年目のただいま Lion(2017豪米英)

初めて見たのは飛行機の中だった。今回で3回目。何度見ても主人公の少年時代のサルーがかわいいし、養母のニコール・キッドマンが素晴らしい。インドの貧しい家庭の少年が迷子になってそのまま孤児に。その後オーストラリアの夫婦の養子になって成人。Googleearthを使って25年ぶりに故郷に辿り着くというお話。この話は実話らしく映画の最後に本物のオーストラリアの養母とインドの実母と息子の映像が出て来る。タイトルの意味も一番最後に明かされてこれまた感動。よく出来ている。「世界には不幸な子どもたちがたくさんいるから、私たち夫婦は自分たちの子どもは持たないことにしたの」と、養母のニコール・キッドマンがいう。夫婦でその考えに至ることに驚く。志が高い夫婦には厳しい試練が待ち受けるのだ。崇高な母に、ニコール・キッドマンがピッタリで、毎度感嘆してしまう。見習って、志を高く持って生きたいと思うのだが、実際はその半分にも至らず現在に至る。残りがみえたら、きっと変わるのだろう。ゴールが見えるのもきっともうすぐ、私の中の神との出会い、その奇跡を信じて余生を生きていくとしよう。

福田恆存「私の幸福論」ちくま文庫(1998)

義父から貰った当時も読んだが、何も覚えていないので再読。元々は1956年に書かれた「幸福への手帖」がもとなので古い著作である。今の時代にそぐわない部分もあるが、なかなか面白かった。最初に美醜の話で、見た目に人が左右されるのは仕方ないから諦めなさいという。世の中は不平等なのだから、代わりにそんなことに惑わせられない生き方を見つけることが肝要だという。全くその通り。自我、自由、職業やら普遍のテーマを掘り下げながら、平易な言葉で丁寧に読者を導いていく。こういうのを知的保守系というのかしら。保守系は苦手だと思っていたが、最近になって嫌いなのは、保守じゃないなと気がついた。「きちんとした説明」、「丁寧に説明」とよく耳にするが、きちんとも丁寧でもないし、そもそも説明自体がなかったり。言葉の冒涜か、相手を馬鹿にしているのか。その両方なのかもしれない。福田恆存が言うところの「教養」がないのかもしれない。さて幸福論を読んだからといって、幸福になるわけではない。とはいえ、常に不幸のどん底にいるわけでもない。実質的なものだけでは生きていけないけど、夢や霞では生きていけない。何事も中庸が1番という、面白くもない結論に至るのだが、それがなかなか難しい。いつ死ぬか分からないが、今ある材料で考えて進むしかない。たとえそれが自信なくても、きっとそれが幸せなのだと。

カリートの道Carlito's way(1993米)

アル・パチーノブライアン・デ・パルマ監督の映画。麻薬組織ギャングだったアル・パチーノ演じるカリートが小賢しい弁護士のおかげで長い懲役刑から免れ自由になる。もう悪事には手を染めずサッサと引退してレンタカー屋をして余生を楽しもう。そう思っていたにも関わらず、というお話。1度染まった悪の匂いは別の悪を呼び込み、本人の意思とは関係なく悪を深めていく。悪には1度も染まらないのが肝心で、1度でも染まった者はやはり真っ当な人間にはなれないと語っていた気がした。何度でもやり直しが出来る社会というのは、なかなか存在しないのかもしれない。 西川美和監督の「素晴らしき人生」の役所広司もそうだった。この映画、監督ブライアン・デ・パルマらしい映像美は随所に見られたが、お話はあまり深まらなかった。感覚的で、もうちょい何か欲しいと思ってしまう映画だった。腹八分目でいいのかもしれないし、別の人が見たらちょうどいいと思うかもしれない。ただ私には物足りない。そういうことはよくある。