藤沢周平の初期の短編集。読み始めると、するすると江戸時代にタイムスリップできる。「武家物」と呼ばれる江戸時代のあまり石高が高くない武士の話である。いわゆる江戸時代のサラリーマンの話。筋立てがどれも面白い。滑らかな語り口は、美味しいお酒のように、しっとりと心に染みていく。時代小説くらいの距離がちょうどよいのかもしれない。今どきの話だと切実すぎたり、リアリティーが気になったり、すっぽり物語世界に没入できないかもしれない。江戸の頃も、今の時代と同じように人は悩んで楽しんで恋して狂って生きていた。今より寿命も短かったし、生死は身近にあったはず。武家にはこう生きるべきという規範があり、潔さを何より大事にする社会だった。残念ながら今の私たちが潔く死ぬのは難しい。今すぐ死にたくはないが、長生きもしたくない。健康は日に日に目減りするし、お金はもはや稼げない。国は自分でなんとかしろというし。身寄りもないし、いても頼って嫌われたくない。長生きリスクは深刻だ。美しい日本の風景や慎ましい生きざまが昔の日本にはあったと勘違いしたいのも、そんな心のなせるわざかもね。過去は何でも美しくする。だから時代小説がいいのかもしれない。