NHK朝ドラ「舞いあがれ」

途中、脚本家が変わってがっかりしたが、元の桑原亮子さんに戻ったら、すっかり落ち着いた。しかし、話は新年始まって、お父さんの高橋克典が亡くなって深刻。奥さん役の永作博美の泣き笑いの名演が素晴らしくて、何回見ても涙が出た。このドラマはある意味、私たちの平成反省会である。リーマンショックあたりから本格的にわたしたちは転落していった。この墜落を丁寧に描く朝ドラ。殊勝な試みかもしれない。マインちゃん、永作博美と、ばんばの高畑淳子の、母娘たちはこれからどうやって生きていくのだろう。随分暗い朝ドラだが、back mumberの切ない声と赤楚衛二のタカシ君の微笑みだけが光明である。空を飛んでなくても、トビウオはトビウオ。水の中のトビウオのように、わたしたちは如何なるときにでも飛べる翼を持っている。正念場があるうちはまだまだ大丈夫。お腹に力を入れて進むだけ。失うものは思っているほど多くない。

アガサ・クリスティ 加島祥造訳「物言わぬ証人」ハヤカワミステリ文庫(昭和52年)

冬はミステリー。どこにも出かけず暖かい部屋で、あまり難解ではないアガサ・クリスティを読む。アガサ・クリスティは昔から好きで、この本も中学生のときに買ったものだ。あれから驚くほどの時間が過ぎた。そして、この年末年始もゆっくりミステリーと思っていた矢先にインフルエンザに罹患。ミステリーも読まず発熱の世界をさまよっていた。人生が長くなると楽しいこともつらいことも、過ぎてしまえば同じであることだと思い始めた。過ぎてしまえばあっと言う間で、過ぎた年月の大きさに驚いてしまうが、だんだんそれも大したことではないと思ってしまう。いつの間にか、私たちの暮らす世界はとんでも世界になっているのに、大人のくせにどうしていいのか全く分からない。世界が、こんなにイビツになるなんて、想像もしていなかったが、絶望し過ぎることもない。鈍感力はめざましく、それほど自分は年をとってしまったのだ。物価は上がり。賃金は下がり、疫病は続いて、戦争も終わりがみえない。正念場である。今年も周りに引き回されることなく粛々と生きていきたい。いつか死ぬ私のために、今日の私が出来ることはそれだけだ。

フジTV「Silent」

話題のドラマも最終回。川口春奈の大きな目からポロポロ涙がこぼれる予告を見て、目黒蓮の手話の切ない演技も、あと1回かと思うと名残惜しい。聖地巡りをしたくなる気分もわかる気がする。コーダという映画でもあったが、手話は音声言語の代わりではなく、ひとつの世界で文化なのだなあと、あらためて感じた。紬の声を思い出せないと悲しむ想の切なさは、簡単には乗り越えられない壁をしる者のそれぞれの胸に響いただろう。主役の2人の年代とは隔たりがあるにも関わらず、ここまで1度も飽きることなく最終回まで連れて行ってくれたこのドラマには感謝しかない。悲しみを抱えて生きる目黒蓮くんの静かな笑顔を見て、朝ドラには出なくよかったのに、と思ってしまった。唯一難点を探して言えば、篠原涼子かなあ。姉、妹、目黒蓮もバラバラだけど、そこに篠原涼子ではちょっとtoo muchかな。切ない最終回を楽しみに今週も生きて行こう。

ヘミングウェイ・高村勝治「キリマンジャロの雪」他十二編 旺文社文庫(昭和41年初版)

ヘミングウェイは以前にも読んでいる。今回は古い旺文社文庫で「キリマンジャロの雪」を読んだ。当時130円の旺文社文庫には巻末に年表があり、解説もしっかりあり、まさに至れり尽くせり。「誰がために鐘は鳴る」がヘミングウェイ原作であることも今回初めて知った。こんなに生きてきたのに何も知らないのである。第二次世界大戦のヨーロッパを嫌いアフリカに出かけたというヘミングウェイ。「キリマンジャロの雪」はその時のアフリカ狩猟旅行(サファリ)の経験からの作品らしい。ちょうど同じ頃、日本では、谷崎潤一郎細雪を書いていたらしい。文豪たちは世間の動きに筆で文句を言う。安易に世界の波に乗ってはいけないねえ。特にきな臭くなってきたら、責任の所在が見えない組織は危ない危ない。誰が言ったかわからない命令で、人殺しなどしたくない。この本では、「フランシス-マコーマーの短い幸福な生涯」という短編が面白かった。これも東アフリカのサバンナを背景にしたお話で、不思議な後味が残った。サバンナ、またあの風景に立てるだろうか。生と死が近くに迫りながら、調和が保たれる世界。死はあっけなく訪れる。だからこそ粘り強く生きるか。逆もまた真なり。

平野雅章「食物ことわざ事典」文春文庫(1978年)

古い本だが、勉強になった。食べ物に関する諺をあげて、見開き2ページに文章が並ぶ。食べもの関係だからと、ソフトな読み口を期待していたが、物言いはクールで気難しい先生の話を聞いているかのようだった。甘ちゃんな私の日常には、背筋が伸びるような厳しさもあり、新鮮だった。女の人が台所に立ち、男の人は厨房に入らないのが良いとされていた、昭和の本。今読むと違和感もあるが、それも時代を感じる面白さかと思った。著者は既にお亡くなりになっているが、食に関する権威としてテレビなどにもよく出演されていたらしい。威厳があって物知りだけど、食いしん坊の素敵な人だったのだろうか。食いしん坊では負けないつもりだが、料理はどちらかと言えば苦手だ。母親がそういうタイプだったが、他界するまでは自分は母とは違うタイプだと信じていた。しかし、母がいなくなってみると、自分が同じタイプだったと、はたと気がついた。親子というのはそういうものかもしれない。料理のような文化は、少し前までは、お姑さんからお嫁さんへ、ごく最近までは、母から娘へと伝えられるものだった。そして今はどうなんだろう。時代は変わる。文化も変わる。変化の時代に乗り遅れるのではないかと心配する一方、時代の波に乗らずに、いちずに信じた道を進むのも良いのではないかと思ったりもする。いろいろ考えているうちに人生は夕暮れ。ぼうっと生きていて日没が来た。そういうのが結構幸せなのではないかと思う。

 

フジTV「エルピス」

長澤まさみが抑えた演技で落ち目な女子アナを演じている。エルピスとはギリシャ神話のノアの箱舟に残されていた希望もしくは災厄の意味らしい。よく分からないのが「テセウスの船」みたいでおしゃれ。眞栄田ゴードンは恵まれた家で育ったの甘ちゃんディレクター。三浦透子は訳ありヘアメイク。長澤まさみの元彼が鈴木亮平。キャスティングがいい。脚本は渡辺あや。さすが面白い。冤罪の死刑囚を救うために、もう嘘をつきたくない自分のために、マスコミの予定調和を破壊しにかかるというお話。今やマスコミも政治も保守本流、揃って、弱い国民を食い物にしている。そういえば死刑を未だに存続している国は、先進国では珍しいのではないか?我が国は三流国だからいいのか?お国が益々信頼出来なくなる今日このごろ、早く死刑も止めないと。いつそちら側に連れていかれるかもしれない。世界が変わり、個人の生活も変わりつつある今、本丸のマスコミも内部は崩壊寸前だ。右も左も関係なく、持つものと持たざるものの戦いなのかもしれない。死刑のサインだけをする地味な仕事の法務大臣には、とりあえず死刑囚の遺体の片付けから始めてほしいかも。くだらない世界に自分を乗っ取られないように、私たちは戦わなければならないようだ。

佐藤優 聞き手・斎藤勉「国家の自縛」産経新聞社(2005年)

佐藤優さんの最初の本が面白かったので、これも読んでみた。産経新聞社から出ているので、前回のとは少し味わいが違う。プーチンが最初に大統領なった頃の本なので、今の情勢と合わせてみると興味深い。佐藤優さんは、外交官は国のために命をかけて働くのが仕事という。今の政治を見ていると、そういう思いで働いている外交官や、政治家は今、実際にどのくらいいるのだろうかと思ってしまった。愛国心は悪いことではないと思う。でも、国内で暮らしているとなかなか国を強く思う気持ちは芽生えにくい。外国で暮らしてみると、日本という国が自分の一部であることがよく分かる。歴史や古典の勉強が大切だということも、よその国に行ってはじめて実感した。佐藤優さんが言うように子どもの頃に、歴史や古典の詰め込み教育をするのもひとつの方法かもしれない。子どもの頃ならたくさん覚えられるしね。学ぶ意味はあとで理解していけばいいし。何より私たちみんなが目指している国際人とは自国のことを正しく理解しる人間だし。そう思うと教育にお金をかけてもいいと思う。森友学園やら加計学園で果たして良かったのかは、知らんけど。若いうちからもっと勉強しておけばよかったなあ。年寄りになるとみんなそう思うのである。年をとったなあ。